Recollection.8 渡辺恭介
寝る前に紅茶は良くないと言って、大叔母が淹れてくれたのはホウジ茶だった。
「恭介さん、それで論文の進み具合はどうなのかしら? 間に合いそう?」
大叔母が教育者の顔で息子の顔を見詰める。
「そっちは順調だよ、母さん。来年の春には教授だ。そうしたら、俺は桜川病院にERを設立する。そのつもりで学内では少しずつ根回しはしてあるんだ」
自分が教授選に敗れるとか、新しい医局を創るのは困難だとか、そう言った事はまるで無視して、恭介は断言した。
彼は昔からとても頭が切れる人間だったが、その分、野心家で自信家だ。
「七海、お前も頑張れよ。少なくとも10年以内には救急認定医までいってもらわないと計画が狂うからな」
そして、強引。
彼は、この調子で七海の進路も決めてしまった。
七海は一見頑固なようで、その実、押し切られやすい傾向の人間だ。
医学部への進学も、結局押し切られる形で決まった。
実は、他に興味のある分野もあったのだが、そんなものは言い出す隙さえなかった。
そういう時に、七海は一つだけ効率の良い必殺技を持っている。
それは、開き直りだ。
とりあえず大学を卒業しておけば、他の大学でも大学院でも、気が向いた時には編入試験を受けることが出来る。
いつか、また他の道に進みたいと真剣に思うようになったなら、それはその時考えればいい。
自分を推してくれる人と摩擦を起こしてまで、押し通したいものはまだ無い。
それなら、今はこれでいい。
「あのねぇ、恭介さん。僕、今年やっと研修医になったばっかりなんだよ。そんな一足飛びに専門認定の話されても困るんだけど」
あまりにも気の早いはとこに、七海は思わず苦笑した。
「そうですよ、恭介さんはいつも強引過ぎますよ。七ちゃんの進路だって結局、あなたが決めちゃったじゃないの」
大叔母は、息子のともすれば横暴とも取れる強引さを諌めた。
「いいんだよ、向いてるんだから。その証拠に、ちゃんと現役で合格して、寄り道無しで卒業したじゃないか」
「それを何故七ちゃんじゃなくてあなたが決めるの? って言ってるんですよ、母さんは」
大叔母は一人息子に向かって大きく溜息を吐いた。
「七ちゃん、本当に良かったの? 何かやりたいことあったんじゃないの?」
今更に心配そうな顔で訊かれた。
実は、七海は彼女にこの質問を何度もされている。
「とりあえず何とかやってるよ。心配しないでいいよ」
淹れてもらったお茶を、そろっと口に含んだ。
猫舌なので、ここは用心深くしないと酷い目に遭う。
「お前が、俺の創るERのエースになるんだからな。頑張れよ」
全く人の話を聞かない恭介は、大叔母の言う事も、七海の言う事も、まるで耳に入っていないようだ。
「だから、一足どころか二足も三足もすっ飛ばしたプレッシャーかけるのやめようよ」
隣に座る恭介の脇腹を、思い切り肘で小突く。
「痛いぞ、七海」
「大体、恭介さんが創るのに何で僕に振るんだよ。自分でやればいいんじゃないの?」
「俺は、経営者向きなんだ。現場は向かん。これでも、自分の才能の所在は見極めてるつもりだからな」
「あ、そ…」
七海の素質がどうとかと言う部分はともかく、実際、外科医単体として考えるなら、恭介は平均値より少し上くらいだ。
決して、抜きん出た名医と言う訳ではない。
彼が突出してるのは、政治力と呼ばれるもの。
人材を見つける観察力。
上層部を上手く操る交渉術。
確かにそれは、大学病院という特殊な環境下では非常に有用な才能で、もしかしたら、医学的な知識や技術よりモノを言う力なのかもしれない。
実際に、恭介は異例の若さで助教授の身分を手に入れ、今度は教授選。
おそらく、それも既に根回し済みのデキレースで、論文など形式くらいのものだろう。
最も、プライドの高い恭介のことだ。
お飾りの論文など書く気は無いだろうけれど。
「臨床的な素質なら、お前の方が遥かに上だよ。俺が言うんだから間違いない」
「…ハイハイハイ。もう聞き飽きたって」
まさに医療過誤を起こしそうになった当日に言われても、全然ぴんと来ない。
自分の身の内のどこを探しても、そんな素質は見当たらない。
(恭介さんの目には、意外と身内フィルタがかかってるのかもな)
現時点で自分がどんな石ころなんだか見当も付かないが、とりあえず、一つだけ分かってる事がある。
恭介が構想しているのは、通称ERと呼ばれる高度救命救急施設だ。
まだ国内に200件も無い。
これを支える救急専門医は国内に2000人ほどしかいない。
それを、恭介は桜川病院に設立するつもりでいる。
その遠大な計画の中に、既に七海は組み込まれ済みだということだ。
彼が何時からその構想を練り始めたのか知らないが、その気の遠くなるような計画の中には、何故か最初から七海が計算に入っているのだ。
「それより、そろそろ寝なくていいのか? 明日もまた日直だろ?」
恭介が時計に目を遣り、七海に振った。
「あ、ヤバイな。明日は通し当直なんだ」
七海は自分の使った湯呑を手に持って立ち上がった。
明日は日直で出勤して、そのまま当直に入る。
「あら、大変。おばさんが引き留めちゃったわね。七ちゃん、ごめんなさいね」
大叔母が申し訳無さそうな顔をした。
大叔父も、大叔母も、どこか世間ズレしていて、おっとりしている。
研究者などと言うのは意外とそんなものなのかもしれない。
(いい人なんだけど、いい加減『七ちゃん』て呼ぶのやめてくれたらなぁ…。とっくにハタチ超えてんだけどなぁ…)
この大叔母に向かって、敢えて不満を挙げるならそれくらいだ。
「それじゃ、おばさん、恭介さん、おやすみなさい」
七海は二人をリビングに残して、2階の自室に引き上げた。