scene.17 真実の位相
すっかり暗くなった部屋。
七海は皺だらけのシーツに寝転がり、寝付けないまま何度も寝返りを繰り返す。
さすがにあれだけまとめて寝てしまうと、眠くはならないようだ。
枕許のデジタル時計が午後6時を指し示した頃、突然インターフォンが大きな呼び出し音を鳴らした。
普段、人の訪れなど無い部屋なので、七海は耳慣れない呼び出し音に驚いた。
(まさか)
心当たりは、一人だけ。
慌ててマットレスを飛び降り、七海は応答スイッチを入れた。
『すみませーん、開けて下さい』
四角い小さなインターフォンのモニタに、情けない顔で立ち尽くしている遠藤が映った。
「な…に、やってんだ?」
まさか引き返してくるとは考えてもいなかったので、七海の頭の中が一瞬真っ白になった。
『目が覚めたら、あまりにも腹減ってたんでコンビニに買い出し行ってたんです。寝る前に買ったヤツは、封切ったままほったらかしだったんで、ダメになってましたし…』
言われて部屋を見渡してみると、床に広げたままのはずの飲食物が綺麗に片付けられていた。
(どこまで几帳面なんだ…)
感心するような、呆れるような。
『部屋の方は数字錠だったので、適当な数字入れたら勝手にロックしてくれますし、エントランスはオートロックだから出る分には不用心じゃないからいいや、と思ったんですが…』
事情を訥々と話す彼の顔は、おつかいに失敗した小学生のようになっていた。
(あ、なんか何となく経緯が読めてきた)
『オートロック、外へ出れたのは良いんですけど…入る時はパス知らなきゃ開かないんですよね。
よく寝てたので起こさないように行ってこようと思ったんですけど…結局起こしてしまいました。すみません』
(やっぱり)
早い話が、彼はエントランスで締め出されたのだ。
しかも、彼のことだ。
きっとインターフォンを鳴らすまで、かなり長い時間困っていたに違いない。
七海が目を覚ましてからでも、既に1時間以上経っている。
コンビニは徒歩5分の場所にあるのだから、往復路と買い物時間を差し引いても、ゆうに30分以上はエントランスで立ち尽くしていた計算だ。
七海は相手に聞こえないように声を殺して笑った。
その場を逃げようなどさらさら考えていなかったようだ。
マイクに笑い声が入らないよう受話器を遠ざけたのだが、その沈黙をどう受け取ったのか、不安げな声がインターフォンから入ってきた。
『…もしかして、怒ってます?』
「別に。何でそう思うんだよ」
『いや。寝てるところ、起こしちゃいましたし…』
「もうとっくに起きてたから。まぁ、目が覚めていなくなってたのにはちょっとびっくりしたけどな」
『す、すみません』
恐縮した表情で、遠藤がモニタの中で頭を下げた。
「ま、いいけど」
実はそのことで今まさに落ち込んでいたなんてことは、とりあえず黙っておこう。
うっかり口に出すと、土下座しかねない雰囲気だ。
エントランスでされたそんなことをされた日には、格好悪くて仕方が無い。
『あの、今朝の…』
暫く間を置いて再び顔を上げた遠藤は、何か迷った顔で言い淀んだ。
「何?」
一安心したところへ、彼が新たな石を構えた。
咄嗟に平常心を取り繕ったが、一体彼が何を言い出すのか、心臓がぎゅっと締まるのを感じた。
『…その 常盤木先生が言ってた…答え、ですけど』
ところが、彼の口から洩れたのは別の話題だった。
「答え? …って、ああ」
それは、帰宅途中に七海の返した言葉を指していた。
"どうしてこんなことが起こるのか"という彼の問いに、七海は"答えは無い"と返した。
その事だった。
(唐突に"今朝の"なんていうから、てっきり…。全く、変なタイミングで紛らわしい話フるなよ)
七海の肩から一気に力が抜けた。
しかし、こちらの動揺など気付く訳も無く、遠藤は更に話を続けた。
『俺は…やっぱり、答えはあるんじゃないか、と思います』
しかも、七海の言葉に真正面からアンチテーゼを提示してきた。
『というより、答えに近づく為に俺らいるんですよね? だから、一回で凹んでたら駄目なんですよね?』
小さな液晶画面の中で、彼は懸命に訴えた。
彼は彼なりの方向を見つけたらしい。
それは確かに存在するもので、そこへ続く道を探す。
『途上』という答え。
彼はつい朝方まで、七海と同じ位相を彷徨っていたはずだ。
それが、今はどうだろう。
解けない問題を丸ごと包んで新しい層を形成している。
(まいったな…。こんな精神力、どこから湧いてくるんだか)
七海は苦笑するしかなかった。
結局七海は何一つフォローはしていない。
彼は一人で立ち直ってしまった。
子供の方が転んだ傷は治り易いというけれど、そんな風に言ってしまうと、やはり負け惜しみになるだろうか。
「それより早く上がって来いよ。いつまでもそんなとこにつっ立ってると、それこそ通報されるぞ。続きは部屋の中でゆっくり聞くから」
『は、はい!』
モニタに映る満面の笑顔を確かめ、七海はエントランスの解錠キーを入力してやった。
彼が11階に辿り着くのを待っている時、ふと、医局長の顔が頭を過った。
彼は、指導医を買って出た七海に対して、「好みなんだろう」と揶揄った。
七海はそれを全否定したが、これでは結局、彼の予言通りだ。
「医局長には、すぐバレるだろうなぁ…」
僅かな未来に起こり得る場面は容易に想像出来た。
自分自身はともかく、遠藤の方は何かと顔に出そうだ。
そう思うと少し気が重いでもなかったが、それこそもう開き直るしかない。
最初で最後か、次回があるのか、それは定かではなかったが、少なくとも逃げ出さない程度には前向き そんなところだろうか。
じきに、遠藤はもう一度呼鈴を鳴らすだろう。
さて、彼はどんな顔をしてドアの向こうに立つだろうか。
それを想像すると、七海は少し楽しみになった。