scene.12 白い闇の涯

 帰り道、七海の横で遠藤は、患者の家族と同じ表情をしたまま押し黙っていた。
 昏い陰。
 黒々とした絶望感。
 当たり前に歩いてきた道が、目の前で突然途切れてしまう。
 そのことへの焦燥や、遣り場の無い憤り。
 足下から世界が崩れていくような恐怖。
 そんなものないまぜにした表情。
 その顔を、七海はよく知っている。
 それは、14歳の自分自身だ。
 14歳の冬、バスの衝突事故で七海は父親を亡くした。

 学校のある市街地から、山間の集落へ向かう国道。
 雪の積もり始めた急勾配の道。
 無謀なスピードで対向車線から突っ込んできたスキー客の車。
 一番近い消防署から、やっとのこと救急車が到着したのは、事故発生から30分後。
 その時七海は、衝突のショックでしばらく意識を失っていた。
 到着した救急隊が、潰れたバスの入り口をこじ開ける音で目を覚ましたのだ。
 バスは、衝突後横転したらしく、七海の足の下に窓らしきものがあった。
 横転したままそれは切り立った崖へ叩き付けられ、元の大きさの3分の2ほどの容積に潰れてしまっていた。
 奇跡的に確保された、風呂の浴槽半分ほどのスペース  その中に七海はいた。
(あ…父さん…。父さんは…?)
 隣に座っていたはずの父親のことを思い出した。
 真っ暗な空間。
 七海はそっと手探りで周囲を確かめた。
「痛…っ」
 ジャリ、と音を立て、七海の指先が散乱する硝子片を引っ掛けた。
 そして、その手は柔らかく生温かいものを探り当てる。
 無数の硝子片に覆われたそれは、人の頭だった。
 目で確認する事は出来なかったが、七海の手のひらに付着したベトつく液体  それはおそらく人の身体から流れ出た血液。
 七海の側にいたのは誰だろう?
 それは、彼の父親だ。
 ならば、この足許に横たわっている人物はおそらくその人物なのだ。

"大丈夫か? 痛いところ無いか?"

 意識が途切れる間際、七海に聞こえた最後の声。
「父さん? そこにいるの、父さんなの?」
 呼びかけに対する答えは無かった。
 強く揺すって、何度も呼びかけを繰り返したが、そこからはもう何も返ってこなかった。
 ただ無為に流れてゆく時間の中、体温と同じ温度の液体が七海の制服を濡らす。
 空調など働いているはずもない車内。
 布地に染み込んだ血液は、瞬く間に凍りつくような冷たさに変わっていった。
 それはまるで、生命が流れ出ていくような錯覚を引き起こした。
 死という名の黒々とした翼が、頭上を覆っているその感覚に、初めて七海が触れた瞬間だった。
 何も出来ないまま、車外で活動している救急隊の声だけが聞こえている。
 まず、バス…車双方の運転手が即死している報が響き渡る。
 続いて、スキー客の車に同乗していた幼児救出の報せに歓声が上がった。
 七海の耳に白々しく響く、歓喜の声。
 焦燥と恐怖は今にも絶望に変わりそうだった。
 それでも、少しずつだが、救急隊の声が後部座席へ近付いてくるのが聞こえていたから、僅かに残った正気を保っていられた。
 救助されれば、助かるんだと、信じていたから。
 軽傷で済んだ生徒の安堵にざわめく声が、余計に焦りを掻きたてる。
 まだなのか。
 まだここまで届かないのか。
 結局、最後部の座席に座っていた七海とその父親が救出されたのは、事故発生から1時間以上も後だった。
 それでも、これでやっと助かったんだと思っていた。
 悪い夢が終ったんだと、信じ込んでいた。
 本当の悪夢は、その先に待っていたのだ。
 幸い七海は掠り傷で済んだが、父親の方は、救助された時にはもう小さな市民病院では受け入れられないほど容体が悪化していた。
 何とか起き上がれた七海は、父親と同じ救急車に乗り病院へ向かった。
 しかし、いずれの病院にも搬送は許可されなかった。
 満床、あるいは担当できる医師がいない  そんな理由だ。
 救急隊員はそれでも受け入れ先を求め、地域外の病院も含め連絡を取り続けたが、やがて、打診する当てすらなくなり、ついには何も無い暗い山道で止まってしまった。
 すっかり陽が落ちた山道には、市街地のような街灯も無く、世界は暗闇に閉ざされていた。

 救急車のヘッドライトだけが、降り募る雪を白く浮かび上がらせていた。


(どうして  


 故意に忘れていた疑問が、七海の意識の表層に浮かび上がろうとしていた。

「…どうして、こんなことが起こるんでしょうか」
 その瞬間、遠藤の方が先にその問いを口にした。
「どうしてって…それは」
 その先の答えを、七海もまだ見つけていない。
 現行の医療制度の問題なのか。
 それとも、各医療機関のモラルの問題なのか。
 もっともらしいことを言おうと思えば、いくらでも言えるだろう。
 しかし、七海自身、答えはまだ何一つ見つけていなかった。
「分からない」
 真剣に発せられた問いに対して、おざなりに答える事は出来ない。
 だから、七海は正直に答えた。
 分からないのだ。
「常盤木先生でも?」
 それじゃ自分が分からなくても仕方が無い  そんな自嘲するような、どこかなげやりな声で遠藤が小さく笑った。
 彼らしくない反応だ。
 今まで彼は、どれだけきつい勤務状態の中でも、決して不満を口にしなかった。
 それが今は、全て投げ捨ててしまいそうな顔をしている。
 彼は、自分自身に不信感を持ってしまったのだろう。
 彼なりの、理想とか信念とか、そういう足下の土台が崩れてしまったのかもしれない。
「多分、その質問に正しい答えは無いよ。責任を追及することは出来ても、唯一無二の答えなんてものは無い」
 七海は、遠藤に対してそう答え、そして初めて気付いた。
(ああ、そうか。答えは最初から無いんだ。だから、いつまで考えていても、答えが出ないんだ…)
 遠藤から投げかけられたのは、今まで自分自身が抱え続けてきた疑問。
 それに対して自分自身が答えることで、一つの回答に行きついた。

 答えは無い。

 それが、この問いの答えそのものなのだ。
 理想の恋人なんてものが存在しないのと同じ。
 どんなものにも長所と短所があり、それらは表裏一体で存在している。
 例えば、目の前の研修医は、とても生真面目で誠実だ。
 しかし、裏を返せば融通が利かず、割り切るべき場面でそれが出来ない人間ということでもある。
「そんな答えじゃ、納得できない?」
 複雑な表情で立ち尽くす遠藤に、七海は言った。
 彼は黙って小さく頷いた。
「…寄ってくか? うち、すぐそこなんだけど」
 もう、七海の住むマンションは目と鼻の先だ。
 本当は地下鉄の駅まで送り届けて、駅横のタクシー乗り場からタクシーに乗せるつもりでいた。
 しかし、これはどうも一人で帰すとますます泥沼にはまっていきそうな雰囲気だ。
「常盤木先生の、家…ですか?」
 遠藤が訝しげな顔で首を捻った。
「これが夜なら、まぁ外で酒でも呷るところなんだろうけど、この時間じゃ、な。
 お前としては、まだ話し足りないんだろ?」
 七海の言葉に、遠藤は再び頷いた。
「じゃ、決まりだ」
 駅へ続く一本道を、七海は右に折れた。
 自宅マンションの方角だ。
 これから登校する学生や、駅に向かうサラリーマンとすれ違う。
 今は、朝の8時前だ。


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