scene.8 夜明け前

 急を告げるアラート音と共に、スピーカーのスイッチが入った。
"こちら、G県N郡救急隊。45歳、男性。激しい胸痛で救急要請。心筋梗塞の疑いです。受け入れ許可願います"
 スピーカーから流れてきた声は、耳慣れない地名を告げた。
 医局内が不穏な空気に包まれる。
 都内までの移動距離1時間以上、どう考えても特殊ケースを想定せざるを得ない。
「患者の状態を詳しく教えてください」
 怪訝に思いつつも、七海は患者の状態を救急隊員に質した。
"午前3時頃胸痛の訴えで、救急要請が入りました。家族の話では、過去1ヶ月以内に2度、狭心症の発作を起こしているそうです。現在JSCで意識レベルⅢ-2。バイタルは触診でおよそ血圧60。脈拍130です"
 バイタルサインは限りなくフラットに近づいている様だ。
 死神が、すぐ近くで黒い羽根を拡げている様が目蓋の裏を一瞬通り過ぎた。
 その場にいるスタッフが皆神妙な顔つきで、スピーカーに耳を傾けている。
「許可します。とにかく急いでください」
 許可は出したものの、どれだけの事が出来るか、七海にも正直自信は無い。

 しかし、これを受け入れないなら、ここはERではない  

 最も生命に危険のある三次救急患者を受け入れる為に創設されたER  だからこそ、どんな患者であろうと受け入れなければならない。
 今、七海の手の中にあるのは、自信でも覚悟でもなく、室長の掲げたその理念だけだ。
 気を取り直して、七海は患者到着後の処置の最短ルートを模索し始めた。
 心筋梗塞は、発症からどれだけ短時間で応対出来たかが救命の鍵だ。
 最初の要請から既に二時間以上。
 かなり厳しい状況が予想された。
「七海ちゃん、これ、たらい回しじゃないの?」
 小沢が苦々しい顔で言った。
  多分、そうでしょうね。でなきゃG県からこんなところまで来る訳ないでしょうし。  それに」
「これだけ時間が経過しているのに症状が続いていると言う事は、既に合併症を起こしている可能性が高い  か」
「はい。心筋梗塞の発作なら、二時間も続きませんからね。大体が十五分前後  それ以上続く胸痛で、意識消失となると別の何か、ですよね」
「ヘタすると、大動脈解離…類は大動脈瘤破裂  何らかの合併症を引き起こしている可能性がありますね」
 七海は無言で頷いた。
 大動脈解離は、簡単に言うと脆くなった血管が裂けてしまうこと。  解離性大動脈瘤は一般的に「コブ」と呼ばれるやつだ。
 いずれにしてもかなり深刻な事態が予想された。
「よし、胸部外科の先生、呼んどくわ」
 小沢はそう言って受話器を手に取った。
 本日、胸部外科の医師は当番ではない。
 オンコールにはなっているので確実に来てくれるだろうが、さて、間に合うだろうか。
「…常盤木先生、大丈夫なんでしょうか」
 遠藤が不安そうな声で七海の顔を見た。
 彼はまだ教科書の上に並ぶ数値でしか判断出来ない。
 熟練したスタッフよりも、余計に不安を感じるのだろう。
「正直、五分五分かな」
 七海はこの時少しだけ嘘を吐いた。
 本当は二分八分。
 もちろん、救命できる確率の方が低い。
(最悪、ここに着く頃には心肺停止  
 最後の最後に、随分重い研修がきたものだ。
 彼は未だ、人の死に直面した事も、死の恐怖に直面した事も無いはずだ。
 しかし、今、医局の中には冷たい死の影が覆っている。
 それを、遠藤もまた肌で感じ取っているようだった。
(そりゃ、いつかは経験するけどな…)
 この仕事に携わる以上、避けて通れない現実の一つなのだから。
 医術は万能ではないのだ。
 誰もブラックジャックにはなれない。
 彼は、早々とそれを思い知らされる事になるのだろうか。
(何も今日みたいにクタクタの日でなくて良かったのにな…)
 七海は小さく溜息を吐いた。
 その時、背後でチームスタッフの一人が、ぽつりと呟く。
"救命率、下がりますね"
「何で今、救命率の話なんか出てくるんですか!?」
 今の今まで不安に苛まれ頼りない声を出していた遠藤が、突然声を荒げた。
 ER内がシンと静まり返る。
「あのね、遠藤先生。救命率  つまりはERの成績よね。これが悪いと、ERそのものの存続が難しくなるの。
ここが救急である以上、急患を受け入れる義務はあるわ。でもね、ここが無くなってしまったら、もっと多くの人が困る事になるのよ
正直なところ、ER自体桜川病院では歴史も浅いし、ハイリスクの割に経営的な旨味は少ないのね。だから、お偉方の口を塞ぐだけの成績を保持する必要があるの。今は、まだ…ね」
 数秒の沈黙の後、田島が諭すような口調でそう言った。
 それは、自分自身が医師になってみて、七海も思い知らされた事だ。
 医師の一人一人の個人的な人間性はさておき、病院と言う組織は非常に保守的だという事。
 自院の成績を下げてまで、救命の望めない患者をわざわざ受け入れない、それが普通なのだ。
 またそれは、裏を返せば明らかに救命不可能な者より生存の可能性が高い者を救うという、逆の選別という一面も持ち合わせている。
 そういう面で、死に直面する機会の多いER  三次救急というのは非常に難しい問題を抱えていた。
(でも、たまにこういうの聞くと、ちょっとホッとするよな)
 七海は誰にも気付かれないように、苦笑いを零した。
 遠藤のそれは、純然な怒りそのものだ。
 混じり気の無い、ただただ素直な感情。
 七海があの雪の日に置いてきたもの。
 搬送前にして既に諦め気味だった七海の気分も、少し持ち上がった。
「とにかく出来るだけの事をしよう」
 七海はそう言うと、素早く腰を上げた。
 とにかく、残された時間は極端に限られている。
 無駄に出来る時間は一秒も無い。
「さあ研修医、行くよ。多分、今日はこれが最後の仕事だ」
 納得いかない顔で棒立ちになっている研修医の肩を、七海は軽く叩いた。


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