scene.6 黄金糖
期せずして七海は本当に新人を潰しかねない事態に陥ってしまった。
最初の2週間から、もう更に2週間、不測の事態で人員不足となり、研修医すら休めなくなってしまったのだ。
不測の事態とは、ER室長…渡辺教授の学会出席が七海の頭に入ってなかった事だ。
(助手に3人も連れて行かれたのは予定外だったよな…。ホントに迷惑だ)
七海は溜息を吐いた。
医局長と新人医師が二人、引っ張っていかれた。
(大体、恭介さんも医局長まで連れてくことないのに、陰謀だ!)
恭介 渡辺恭介教授は、ER室長であり、七海の母親と従兄妹関係だ。
七海を医師にした張本人でもある。
しかし、どれだけボヤいたところで、学科全体のスケジュールと同行する助手の人数を計算に入れ忘れていたのは、明らかに七海のミスだ。
本音では、遠藤に対して申し訳ないなと思いつつ、七海はそれを本人に告げることが出来ないでいた。
そういうコミュニケーションは、どうも苦手だ。
この性格のせいで、実際過去に辞めてしまった研修医もいるくらいなのだ。
さすがにその時は、医局長と室長から懇々と説教を喰らったが。
お蔭様で、研修医や実習の医学生から頂いたアダ名が『鬼軍曹』。
さすがにこれは凹むと言うものだ。
(直さないとマズイんだけどなぁ……)
自覚はあるが、行動が伴わない。
しかし当の遠藤は、七海の過酷なシフトにも業務中に絶え間なく飛んでくる叱責にもめげず、頑張り続けている。
第一印象に誤りは無く、遠藤はどこまでも仔犬だ。
ひたすら、必死に、親犬=七海に喰らい付いてくる。
結局、未だ彼の口から"NO"は聞かない。
素直過ぎて不安になるくらいだ。
「研修医、薬局から薬取ってきて」
「はい」
「SPDに包帯届いたってさ」
「はいっ」
「伝票、管理課に持ってって」
「すぐ行ってきます!」
終始、こんな調子である。
ここまでくると、今度は七海に対する周囲の目が痛い。
(こうまで素直だと、可愛いんだか、ウザイんだか )
はっきり言って、この1ヶ月は七海にすらちょっと厳しいシフトだった。
(それでもまあ…よく、文句一つ言わずやってるよ)
今更ながら、しみじみそう思った。
(この当直が明けたら、食事くらい奢ってやってもバチは当たらないかもな)
正直言って、医療技術で言えば遠藤の腕は飛び抜けて上という訳ではない。
今までの研修医の中でも、中の上といった辺りだ。
それでも、ここまで喰らい付いてくるその根性は、いくら知識を詰め込んでも得られるものではない。
また、彼は患者に対して感情的なブレを決して見せない。
入局前、泥酔したサラリーマンにサックリ付き添って行った日と同じ、生真面目に、誠実に対応している。
(あの時 バスが事故った時、コイツみたいなのがいる病院に最初に辿り付いていれば、父さんは死ななかったのかもしれない)
父親を乗せた救急車は、結局どこへも辿り着かなかった。
受け入れ先が決まらないまま闇雲に走り続け、最後は白い闇に抱かれて止まった。
もし、初めに連絡を入れた病院が、誠実に対応してくれていたら。
ふと、そんな気持ちが頭を過ぎった。
七海は、その考えをすぐに頭から追い出した。
(今更…何を考えてるんだろう)
どうにもならない時はある。
それは、自分自身が医師になってからも、何度も経験してきている。
感傷的な感情に捉われる自分を、七海は自嘲するしかなかった。
「常盤木先生」
病棟とERを何往復かさせられた遠藤が、最後のおつかいを済ませて戻ってきた。
当たり前だが、さすがに少し息切れしている。
(そろそろ文句の一つも言われるかな…)
彼が怒って不満を口にしたら、その時は素直に手違いを白状して謝ろうと覚悟を決めた。
「常盤木先生、コーヒーどうです?」
ところが、彼は怒っている様子も無く、缶コーヒーを七海に差し出した。
「…ありがとう」
拍子抜けした気持ちで、七海はそれを受け取った。
「良かったらこれも一緒にどうぞ。顔色良くないですよ」
七海のデスクの上に、飴玉が数個転がった。
「何、お前、大きな図体して飴持ち歩いてんの?」
七海は思わず吹き出してしまった。
ついさっきまで謝る覚悟だった殊勝な気持ちはどこへ行ったのだか。
「おばあちゃんの知恵袋ですよ。ブドウ糖打つより健康的でしょ」
そう答えた彼は笑われた事など気にしてない様子で微笑んだ。
「そうだな。確かに、無駄に注射針入れるよりいいかもな。じゃぁ、せっかくだからいただきます」
七海は飴を一つ手にとって、包み紙を解いた。
(おばあちゃんの知恵袋ね。なるほど。それで黄金糖か)
昔、誰もが、近所のおじいちゃんおばあちゃんから一度は手渡された記憶のある、実に素朴な飴だ。
味はといえば、今時コンビニやスーパーで売っているものに比べればとてもシンプル。
煮詰まった砂糖と、少々の香料の匂いだけだ。
(僕は、これって粉末のレモンティーと似た匂いだと思うんだけど、世間的にはどうなのかな)
懐かしい味覚に、草臥れた気持ちが少し和んだ。
彼がいる事で、ピリピリしがちなERの医局が和やかになっているのは確かだ。
しかし、当然ながらその遠藤の横顔が、日増しに疲労の色を濃くしているのも事実。
今の勤務体制に慣れていない分、彼の方がより過酷に感じているはずである。
「研修医、今日の当直が明けたら、オフだからな。頑張れ」
明日になれば、学会に同行していた3人が戻ってくる。
そうすれば、入れ替わりで休みが取れるのだ。
万が一、学会組が帰って来なかったりしたら日程がズレるので、明日オフの予定である事は敢えて黙っていた。
しかし、もっと和んだ顔が見たくなって、思わずそれを口から出してしまった。
「ほんとですか!? 休みですか!?」
"休み"の一言に、遠藤は満面の笑顔を見せた。
尻尾があったらどれだけ振ってくれるだろう。
予想以上の喜びようだ。
今日を乗り切る活力になるなら、それはそれで教えてやって良かったかもしれない。
自分の方がよっぽどへろへろの癖に、七海の顔色まで心配してしまう人の好さが少々くすぐったかったが、他のスタッフ同様、七海の中でも彼に対する好感度はそれなりに高かった。
「本当だよ。あと1日だからお互い頑張ろうな」
自分より一回り大きな背中をぽんぽんと軽く叩いた。
「はい!」
そう答えた彼は、やはりとてもにこにこ笑っている。
しかし、過酷な1ヶ月の最後の当直は、日中の穏やかさに反してそれまでの中で最も過酷な一夜となった。