scene.1 鬱の月
10月半ば。
桜川町…某所。
午前2時。
七海は、身体を強く揺すられて目を覚ました。
「常盤木先生、大丈夫ですか?」
看護師の田島が呆れた顔で七海の身体を引き起こした。
「寝てた…」
七海は、重い目蓋を無理やり開く。
開いた目に映ったのは長野の山奥ではなく、職場である桜川病院スタッフ連御用達の居酒屋だった。
現在、七海は桜川病院のERに所属する救急救命医だ。
「常盤木先生、ホラ、お水! お医者様が急性アルコール中毒で搬送されたら、笑い話にもなりませんよ」
今年でこの道25年のベテラン看護師は、そこらの中堅医師にはまず負けない貫禄を備えている。
七海は、手渡されたグラスの水を一息に呷った。
「田島さんにかかると、七海ちゃんもまるで子供だねぇ」
七海と同じチームの麻酔医…小沢が、横から嘴を挟んだ。
「小沢さんと僕の実務経験を足しても、田島さんに及びませんからね」
七海は苦笑してそれに答えた。
「当直続きでしたものね、常盤木先生。お疲れのはずですよ」
田島はスタッフに対して厳しい事で有名なオペ看だが、七海には妙に甘いところがあった。
本人曰く、子供みたいな無茶をするので目が離せないのだそうだ。
「何かね、懐かしい夢見てましたよ。昔住んでたとこの夢」
生まれてから14歳まで暮らした、静かな田舎の集落。
冬は雪に閉ざされ、夏は観光客の通過点。
あるものと言えば、日本一標高の高い駅と、天文台だけだ。
「そう言えば七海ちゃん、どこ出身だっけ?」
小沢がのほほんとした声で言った。
この人は、素面でも手術中でもこんな感じだ。
「長野です。そうは言っても、僕は14歳までしかいませんでしたけど。今は、母親だけ長野に戻ってます」
14歳の冬、交通事故で父を亡くした後、母親は親戚を頼って東京に戻った。
しかし、七海が医大を卒業した年に、父親の墓のある長野に戻ったのだ。
アルコールの所為だろうか。
気持ちの半分が、山間の小さな集落に飛んだまま帰ってこない。
東京の小さな居酒屋で、職場の仲間とテーブルを囲みながら、心は14歳へ戻っている。
奇妙な感覚だ。
「おっ、あっちの席、内科じゃないか? どうやら送別会らしいな」
小沢が、自分達と反対の隅に陣取っている小集団を指した。
どちらかと言えば、こちらの席はしんみり飲んでいる雰囲気だが、あちらの方は大盛り上がりの馬鹿騒ぎムードだ。
どうやら、上半期勤め上げた研修医の送り出しをしているらしい。
(騒ぐのはいいけど、ウチに運ばれてくんなよな…)
先刻の自分自身を棚に上げ、七海は内科の集団に心の中で毒づいた。
公務員を筆頭に、銀行員、医者、飲み屋で嫌われる職業ワースト3だ。
職場でおカタく振舞わなければならない所為か、こういう席になるとハメを外しすぎるのである。
「研修医って言やぁ、もうすぐ来るね、前期研修医が」
のほーん、と小沢が言った。
「どうせ、今年もうちのチームですよね…」
七海は溜息を吐いた。
ERには大まかに分けて三つのチームがある。
七海の統括する一班。
外科から派遣された医師中心の二班。
医局長が、外部から入れている非常勤医師で頭数を補填して構成している三班。
三班は、どうしても一班と二班で回り切らなくなった時にその穴を埋めるためのものだ。
「正式にERに所属してるのはウチのチームだからねぇ。まぁしょうがないでしょう。第一、救急の指導医資格持ってるの七海ちゃん入れて3人しかいないじゃない」
小沢が苦笑した。
桜川病院では、最初の12ヶ月のうち、4月から9月に内科…10月以降は外科及び、麻酔科を含む救急医療の臨床研修を行う。
近年、国の研修医制度が大幅に変更されたお陰で、本人の希望とは別に、全ての研修医は救急医療の研修を受けなければならないという決まりが出来てしまった。
これは強制される研修医にも不満があろうが、第一線で医療に当たる上級医にとってもたまったものではないのだ。
色々理論立ててクドクド語ることも出来るが、七海としてはただ一言、こう言いたい。
「やる気無いのにうちに来るヤツは迷惑なんだよっ!」
気付けば、立ち上がって拳を握り締めていた。
同席している田島と小沢が目を丸くしている。
「まぁまぁまぁまぁ。その件に関しては、誰もが思うところですけどね」
田島が苦笑いを零す。
「やる気無いの通り越して、不満タラタラで来る子、いるしねぇ」
小沢が深く頷いた。
そして、七海の肩を押さえて、座らせた。
新しい研修医を受け入れる季節。
桜川ERでは、前期研修医を受け入れる1月と、研修3年目から5年目の後期研修医 いわゆるレジデントを受け入れる4月。
この時期、現場に立つ上級医の大半が憂鬱な気持ちになるのである。
「いい子が来ると良いですね」
田島が希望的観測論を口にした。
「…ですね」
相槌を打ちつつ、七海は溜息を吐いた。
「でも、ほら。去年の子は良かったじゃない。結局、ウチには来なかったけど。たまには当たりクジもあるよ、七海ちゃん」
あからさまに気鬱な顔の七海の背中を、小沢がぽんぽんと叩いた。
「とりあえず、僕が指導医にならないように祈っててください」
そう言って、七海はグラスに半分ほど残っていたウィスキーを勢い良く呷った。