5.桜川病院救命救急部/ICU  12月18日 AM10:25

 平和、と呼ぶのならば、それは平和な朝だったのだろう。
 搬送の少なかった当直に、医局長・小田切は嘆息する。
(まあ、満床じゃ患者取れないし、当たり前か)
 クジ運の良い後輩が悉くベッドを埋めてくれるので、小田切に回ってくるのは事後処理が中心だ。
 超急性期を抜けた患者の引き取り先を探すのが、主な仕事になる。
 退院、転院、或いは他病棟への転棟は、午前10時前後と午後2時前後の概ね一日2回。
 原則、そこは臨機応変と言うことにはなっているが、一般病棟の入退院時刻がその辺りになっている以上、そこでベッドを勝ち取れなければ、その他の時間はより確率が下がるのは自明の理と言うものである。
「ただし、土日祝は含みません、ってか」
 またも一件、受入れを断られた所で、小田切は半ば腐り気味に受話器を置いた。
 通常のICUと別に設けられている救急部のICUは20床。
 バックヤードとなる病床は約5床。
 まだ、恵まれている方だろう。
「小田切先生ー、今日の転・退出の患者さん何名ですかー?」
 本日のリーダーが、小田切の方へパタパタと駆けてくる。
「何とか3床空けられそうだ。午後から、もう2床、頑張りたい所かな」
 ここは、せいぜい不敵に笑っておく。
「先生ってば、受け入れ態勢満々ですね」
 看護師が苦笑いをこぼす。
 そう、空床を作る事は即ち新たな患者を受け入れられる状態を作る事。
 転じて、眠れない夜の始まり  と言う訳である。
「常盤木先生がオフから戻られたら、また大騒ぎですねー」
 苦笑いながらも、どこか楽しげに、看護師は本日の予定をメモに取っている。
 不謹慎なのかもしれないが、皆どこかこの狂騒を楽しんでいるのかもしれない。
 背負っているものは量れない重さを持っていても、自分たちまでも重苦しくなっている場合ではない。
 そういう部分では、常盤木七海も、遠藤要も、あまり救急医療には向いていないのだ。
 拘り過ぎる。
 或いは、割り切りが足りない。
 今現在の医療で救命出来ないものは、諦めるしかないのだ。
 それを考えるのは研究分野の領分であって、臨床  少なくとも救急医の仕事ではない、と小田切は考えている。
  そんな事まで考えてちゃあ、立ち上がれないものなぁ」
 語尾だけが、小田切の口からぽろりとこぼれた。
「え? 何がですか?」
 看護師がきょとんとしている。
「あ、いやいや、何でもないよ。まあ、今日の予定はそんなとこだ。よろしくね」
 精一杯にこやかに、看護師に手を振る。
「はーい」
 彼女は、軽やかな足取りで朝のルーティンワークに戻っていった。
「おはようございます。小田切先生」
 入れ替わりで現れたのが、精神科医の綿貫医師だった。
 自殺企図で搬送されてきた高校生、古賀雄介の主治医だ。
「おー、おはようさん。今日も美人だねぇ」
 二人の間では、毎度おなじみの挨拶である。
「はいはい、いつもありがとうございます。
 でも、いい加減やめましょうね」
 呆れ顔で綿貫は、小田切の前にカルテと書類を積んだ。
「ははは」
「あまりしつこいと、セクハラで訴えますよ」
 綿貫の口から、冷たい溜息。
 おっと、ここらが引き際か。
 小田切は肩を竦めた。
「で? いろいろむき出しの青少年の様子はどうよ? 退院出来そう?」
 古賀雄介の話に引き戻す。
「何だか、いろいろ引っかかる形容ですね  まあ、良いですが。
 そうですね。精神科病棟に入院してもらう程の患者ではないですし、退院してもらうしかないですね。
 ただし、通院・投薬は必要かと思われます」
「かかりつけ医に手紙書くか?」
「まあ…本来であれば、元の心療内科にまた通ってもらうべきなんでしょうが  
 綿貫の返事は、芳しくない。
「何か問題があるのか」
「ちょっと、無作為に薬を出し過ぎていると言うか…依存性の高い薬を出している割に、本人がそれを服用していない事に2ヶ月以上気づいていませんし  
「綿貫先生としては、納得がいかないのな?」
  はい」
 一見彼は線の細い印象だが、中身はかの常盤木七海に負けず劣らずの拘り屋で、頑固者だ。
「で、どうすんだ? お前、本業は校医だろ。まさか他所の学校の生徒を保健室で診る訳にもいかんだろう」
「それなんですが、麻酔科の小沢先生に口利きしてもらって、ペインクリニックの診察室で時間を融通していただける事になりました」
「なりました  って、お前…しれっと事後報告かい!」
 全く、ここの連中はフットワークが軽すぎる。
「良き先輩に、常に勉強させていただいてますから」
 薄幸の美少女さながらの微笑みで、この不敵の台詞。
 さすが、『常盤木七海の後輩』である。
「そう言えば、七海先輩は今日オフですか?」
「ああ。今日がオフで、明日が当直入りだな」
 小田切の答えに、綿貫は思案顔でしばし沈黙する。
「それでは、本日中に雄介君を救急から出してしまいましょう」
 やがて、顔を上げて彼は退院に関する書類をパソコンから立ち上げる。
「おいおい、退院は良いが、何でそこに常盤木が出てくるんだ?」
 またも事後承諾に追い込まれる小田切。
「彼はうつ病の診断を受けていましたが、実際には境界性パーソナリティ障害です」
「そう診断したポイントは?」
「まず、うつの典型的症状である"落ち込み"や”興味・関心の低下”はそれほど高くなく、"不安・焦燥"の方が強く現れています。
その中でも、"見捨てられ不安"が特に強いです。また、感情の大きな揺れがあることから、単純なうつ病ではないです。そして、他者への強い依存性と攻撃性  これらの点から境界性パーソナリティ障害を疑います」
 立て板に水、レポートのような回答が帰ってきた。
「さすが首席」
「卒業時は次席です。揶揄わないでください」
 顔色一つ変えず、小田切の言葉は遮られた。
 揶揄い甲斐  もとい、褒め甲斐のない生徒だ。
「まあ、いいや。で、治療方針は?」
「まず投薬です。抗精神病薬で焦燥感を収めます。さらに不安感が強いようならセロトニン選択制の抗うつ薬を処方します。これまで使用してきた三環系抗うつ剤は使いません。
 そして、個別面接で信頼関係を築けたら、家族との合同面接に持ち込みたいと考えています。
 境界性パーソナリティ障害というのは未熟なパーソナリティが引き起こすのですが、彼の場合、その要因が家庭環境に大きく起因すると考えるからです。
  そうは言っても、話を聞く限りではあまり協力の望めない環境だとは感じていますが…」
「OK。方針は分かった。ところで  
 どこから常盤木が  と言いかけた時、綿貫が言葉を重ねた。
「何故、俺が七海先輩と雄介君を離したがっているか、でしょう?」
「ああ。今回の件  常盤木、遠藤、関わった連中が皆それぞれおかしな様子で、そこへきてお前も何だか過剰反応だな、と俺なんかは感じてしまうんだが」
 メンタルは門外漢なのだから仕方がないと言えば仕方ないのだが、小田切にはどうも得心がいかなかった。
「その理由は、彼  雄介君が七海先輩に依存しつつあるからです。
 先輩らしくないミスです。
 患者に  特にメンタルの問題を抱えている患者に、必要以上に踏み込むのはリスクが高い。
 それにも関わらず、七海先輩はその境界を越えて接してしまった。
 本来なら、カウンセラーの俺に依存対象を引っ張らなければならなかったのですが、七海先輩に矛先が向いてしまったんです」
 綿貫がきゅっと眉根を寄せた。
(ああ、あれか。
 個人的に本貸したとか、やたら常盤木を捜して詰め所に古賀雄介が現れるとか  
 それなら、小田切の耳にも憶えがあった。
「普段の七海先輩ならあり得ないミスですけどね」
「あいつ、意識のある患者にはどっちかってぇと冷たいからなぁ」
 そこで二人顔を見合わせて、小笑い。
「…こほっ。
 失礼しました。
 小田切先生、笑い事じゃないんですよ。本当に」
 軽く咳払いをし、居住まいを正して、綿貫は小田切に詰め寄る。
「何で。そこまで深刻な状況か?」
 精神疾患を煩う患者がこれまでにきた事がない訳でも無し、経験上から鑑みても古賀雄介はそれほど危険な患者ではない方だ。
 事実、常盤木も最初は精神疾患ではない可能性を示唆していた。
 その彼に対して、何故これほど綿貫は気を揉んでいるのか。
「それは、彼の疾患に対して共鳴してしまう病巣を抱えた患者がいるからです。
  無自覚な分、そちらの方が重症かもしれません」
「その患者ってぇのは、つまり?」
 もう小田切にも読めていたが、敢えて質した。
「七海先輩、本人です」
 綿貫の答えは簡潔、そして、予想した通りのものだった。
「あいつがいったい何を患ってるって言うんだ?」
「アディクション  その中でも、人間関係嗜癖と呼ばれるもの。
 依存される事に依存してしまう疾患。共依存とも呼ばれています」
「依存されることに、依存 とは?」
「言葉のままですよ。自分がいなければ、この人は救えない。
 そういう自己評価そのものに依存してしまうんです」
 そう言われて、小田切にも腑に落ちるものがあった。
 何の付加価値もない自分を評価する事が出来ず、人命を救う事が出来る自分しか評価する事が出来ない。
 逆に、救う事が出来ない自分には、何の価値も見出せない  
「そうです。今の七海先輩の救急医療に対するスタンスそのものが人間関係嗜癖であり、他者への強い依存性を示す雄介君と接触を続けると、間違いなく共依存関係に陥ります」
「だから、引き離すんだな」
 小田切は綿貫の言葉に多く頷いた。
「そうです。取り返しのつかない事態を招く前に、二人を引き離します」
「俺もメンタル関係は素人なんだが、そんなに危ない状態なのか?」
 小田切の問いに、綿貫が眉間に皺を寄せた。
「メンタルのプロフェッショナルは、まず患者に対する線引きを身に付けなければなりません。
 それでなければ自分の身を守れませんから。
 共感しなければ、信頼は得られない。
 けれど、同調してしまったら、今度は自らが闇に呑まれてしまう。
 だからその線を越えない為にも、職務と言う枠の外へ出ません。
 それが、メンタルを扱う人間の鉄則です」
「常盤木は、その一線を知らず知らず踏み越えてしまった訳か」
「仕方ないですけどね。
 雄介君のような  境界性パーソナリティ障害は精神疾患の中でも対応が難しく、特に専門性を求められる疾患の一つですから」
 私物の本を貸したのだとか、進路相談に乗ってやっただとか、些か踏み込み過ぎた部分はあるにせよ、それ程大きく全く間違った対応をした訳でもない。
「それで、エスカレートしていくと具体的にはどうなるんだ?」
 いつになく真面目な顔で、小田切は綿貫を質した。
「そうですね。ストーカー化する可能性が非常に高いです。
 それを回避する為にも、出来るだけ二人を接触させないように気を付けてあげて下さい。
 お願いします」
 小田切に向かって、綿貫は深く頭を下げた。
 この状況を招いてしまったのは自分の力不足によるものだと、彼は考えているようだ。
「おいおいおい、よしてくれ。
 それを言うなら、現場指揮官の俺が一番責任大なんだぜ。
 常盤木に頼りすぎた俺のミスだ。お前が責任を感じるこたぁねえさ」
 下げたままの頭を、小田切がぽんぽんと叩く。
「それにしてもまあ、お前も余分な荷物背負っちまって  なんて言っちゃ言葉は悪いけど、そこまでしてやる事もないだろう。
 もともとの主治医に返しちまえば良かったのに。
 お前、いつもならそんな『仕事熱心』じゃないだろう?」
 小田切は苦笑を零した。
 医学生時代、学年トップクラスの秀才だった綿貫が大学の医局に残らなかった理由は至極単純で、"拘束時間が長いから"だった。
 その点、校医であればほぼ定時営業、夜勤無し、春・夏・冬の長期休暇付き。
 給料は勤務医より劣るが、開業医のように自分が経営者になるリスクもなし。
 彼はキャリアや給料よりも、自由な時間を選択したのだ。
「いえ、別に責任感でもないんですけど…ただ  
 自分の手の届く範囲にあるものは、守りたいだけですよ」
 手の届く範囲  綿貫にとってそれは、不特定多数の患者を指すものではない。
 もっと狭い範囲の、ごく個人的な範囲のもの。
 今回の件で言うなら、常盤木七海は綿貫にとって大切な先輩であり、気の合う友人  
 その彼に危害が及ぶ状況を、何とか回避したい  ただそれだけだと言う事だ。
 そういうものなくして、綿貫は職務の枠を超えて動く事はしない。
「小田切先生も御存知の様に、俺は利己的な人間ですから」
 やや冗談めかして綿貫はそう付け足した。
「まあ、知ってるけどよ。
 それはさておき、お前自身に危険は無さそうか?」
「ご心配なく。今のところ俺に危険は及びませんよ」
「そうか。ならいいんだが」
 小田切は鼻の頭を掻いた。
「もしかして、俺に気を遣ってます?」
 小田切の様子に綿貫は苦笑している。
「まあ、客分だからな。
 呼び出した張本人はオフでいないし、ここは一応責任者として接待しとくべきかと思ってな」
「接待は良いですね。相変わらず冗談が好きだなぁ、小田切先生は」
 可笑しそうに綿貫が笑った。
「いや、別に冗談ばかりでもないんだが…」
 元々面倒見の良い性格ではあるのだが、彼がこれ程までに綿貫を気に掛けるのには訳があった。
「小田切先生、俺、もうあなたの患者じゃないですよ」
 そう、かつて綿貫と小田切は患者と主治医の関係にあったのだ。
 もう10年以上も昔の話である。
 そんな事情が相俟って、未だに小田切は綿貫に対して少々過剰な程の気遣いをしてしまう。
「そうか…そうだったな」
 小田切は自らの発言に苦笑した。
 そして、ふと腕時計に目を落とす。
「おっと、思ったより時間が経っちまった。
 どうだ、一緒に昼飯行くか? 何なら久々に夕飯でもどうだ」
 先に述べた通り、旧知の仲であるのは常盤木だけではない。
 患者と医師、医学生と教官、研修医と指導医  交流期間だけで言えば小田切の方がむしろ長い。
「じゃあ、ランチにご一緒させていただきます。
 今日は早く帰らなければならないので、夕食はまたの機会に」
 喋りながら纏めていたらしいサマリーが一段落したらしく、綿貫は電子カルテを閉じて立ち上がった。

scene5.幻覚肥大 了

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+++ 目 次 +++

Scene.5 幻 覚 肥 大

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+++ 目次 +++ 

    本編
  1. 嘘の周波数
  2. Ancient times
    夏祭り SS
  3. 抗体反応
    After&sweet cakes SS
  4. 依存症 [連載中]
  5. 依存症 [連載中]
    ⅰ自殺企図
    渡辺教授
    空想科学
    疑似科学
    ⅴ幻覚肥大
    scene.1
    scene.2
    scene.3
    scene.4
    scene.5
    共鳴振動 NEW!
    番外編
  1. 真実の位相
  2. 二重螺旋
    企画短編
  1. 50000Hit記念
    Stalemate!? [完結]

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