2.温泉旅館『秀のか』/離れ  12月18日 AM8:20

 障子紙に濾過された朝の光は、柔らかい乳白色を帯びていた。
 緩慢な動きで、七海は身体を起こす。
 身体が、酷く怠い。
 昨夜の記憶は、途中から途切れていた。
 目醒めた瞬間、どうやら夢と共に霧散してしまったらしい。
「…何か、色々言っちゃったような気は、するんだけど…」
 思い出そうと試みるが、靄が掛かった頭ではどうにもままならない。
(それにしても……ダルい)
 骨の軋む音が聴こえてきそうだ、と七海は思った。
「…そう言えば、アイツどこ行ってんだ」
 見回すと、寝間には既に遠藤の姿は無かった。
「朝風呂でも行ったかな…?」
 よくよく寝所から消える男だ。
 七海は、溜息混じりに布団から立ち上がる。
  はずだったのだが、失敗。
「……っ?」
 腰から下に全く力が入らないのだ。
「嘘だろ…!?」
 力を入れても、膝が笑ってしまう。
 腰が立たなくなってしまったらしい。
「無茶やりやがるから…」
 そうぼやいた七海の記憶から、自分自身の発言は吹っ飛んでいる訳である。
 憶えてないと言うのは、全く恐ろしい。
 それはさておき、ふと自分の身に着けている浴衣がやけに整っている事に気付いた。
 いや、気付いてしまった。
 昨夜、原型も留めない程乱された浴衣が、今は整えられている。
 それを行ったのは七海自身ではない。
 と言う事は、つまり  
(アイツか…)
 その場面が想像され、顔から火が出そうになる。
 いや、今更何を恥じらう様な関係でもない。
 ないが  七海は、火照る顔を両手で覆った。
「けど、だからって  
 この時七海は、服は着せられる方が、脱がされるより遥かに気恥ずかしいと言う事を思い知った。
 そこへ、障子が開く音とともに、遠藤が姿を現した。
「七海さん、目が覚めました?」
「わっ! 驚かすなっ!」
 驚いた七海は、思わず声を荒げてしまった。
「へっ? すみません!?」
 条件反射になっているのか、怒鳴られた理由も見当もつかないはずなのに、即座に謝る要を見て、さすがの七海も罪悪感を感じずにはいられなかった。
 本当は、単に赤くなっているであろう顔を見られたと言う恥ずかしさから、声が高くなってしまっただけなのだが。
「あ、いや…、悪い」
 ここは、七海も素直に謝るべきであろう。
「????? 良いですけど。
 それより、大丈夫ですか?」
 膝を折って遠藤が顔を近付けてきた。
「な、何がっ!?」
 思わずひっくり返った声が情けない。
「いえ…七海さん、途中で気  
「バカッ! どっかでデリカシー拾ってこい!!」
 言いかけたその口を、両手で思い切り塞ぐ。
「ーっ!?
 俺、何かマズいこと言いましたかっ?」
 七海のリアクションの理由が飲み込めなかった様で、遠藤が目を白黒させている。
 真っ直ぐすぎる性格も考えものだ。
「〜〜〜〜〜っ。
 もう、いい…。
 それで? 何か言いにきたんじゃなかったのか?」
「へ?
 ああ、そうだ。
 朝食、準備出来てますよ。
 そろそろ起き上がりませんか?」
 七海の左横に膝を衝いた遠藤が、顔を覗き込んできた。
「朝食  
 もちろん、食べたい。
 何だかんだで昨夜は何も食べていない。
 その上、著しく体力を消費してしまっている。
 はっきり言って、フラフラだ。
 しかし、どうやっても腰から下に力が入らない。
「どうしたんです?」
 妙な顔で、遠藤がこちらを見ている。
(言えるかっ! 下半身に力が入らないとか!)
 そこへ、更にその原因を作り出した諸悪の根源がにじり寄ってくる。
「あの? 食べないんですか?」
「食べる! 食べるけど、お前先食べとけ!
 僕は後で頂くから! 先食べ始めてくれ! な!?」
 にじり寄ってくる遠藤の肩を押し戻そうと腕に力を込めた。

     すると。

 どうした事か、七海の身体の方が後ろに押され、情けなくも布団の上に沈没してしまった。
 腰が立たないと言う事は、上半身にも力が入らなくなってしまうものなのか。
(身体機能って面白いよなぁ…)
  などと、現実逃避している場合ではない。
 このとんでもなく恥ずかしい状態を、知られたくない。
 知られる訳にはいかない。
 なんとしても、切り抜けねば。
 何とか身体を持ち上げようと試みるが、その姿も何とも情けない有様で  
「大丈夫ですか!?」
 心配そうな声と共に伸びてきた遠藤の腕に引き起こされてしまった。
「あの、もしかして脚に力が入ってないんじゃないですか?」
 いや、脚と言うより腰  そんな事ではなく。
 何としてもここは誤摩化さなくてはならない。
「いや、そんな事無いって。今行くから」
 慌てて要の腕を外し、立ち上がろうと膝に力を込めた。

     が。

 気合いでどうにかなるものではなかった。
「七海さんっ?!」
 ぐらりと傾いだ身体は、受け止めようとしてか伸ばされた相手の腕に転がり込んでしまった。
「危ないですよ!」
 そう言った、遠藤の目が少し怒っている。
 彼の方が声を荒げるのは珍しい。
「あ…ごめん」
「脚に力が入らなくなってるなら、そう言って下さいよ…。
 どうして隠そうとするんです?」
「いや  そりゃ」
 恥ずかしいからに決まっている。
「だって、それ、俺のせいですよね」
 いや、違う、いや、そうか。そうだけども。
「だったら、尚更言って下さいよ」
 いや、だから、尚更言いづらいんだって。
「やっぱり、俺は頼りにはなりませんか…」
 おや? 何やら話が違う方向へ。
「そうですよね。
 所詮若造ですし、未熟者ですし、若輩者ですし」
 あからさまに要がしょげていく。
「いや、そんなことないって。
 お前が頼りにならないとか、そんな風に思ってる訳じゃないよ」
「そうですか?」
 今しょげ返っていたはずの遠藤が顔を上げた。
 そして、不敵に笑った  ような気がした。
「じゃあ、俺が支えますから、朝ご飯食べにいきましょう。
 折角ですから、温かいうちに」
 ひょい、と両足を掬い上げられ、七海は容易く抱え上げられてしまった。
「うわっ! ちょっ、これはやめろ! 下ろせ! 下ろしてくれ!」
「お、わ、七海さん、暴れると危ないですよ!」
 そんな事を言いながら、その顔が笑っている。
「はめたな!?」
 どうも一杯喰わされたらしい。
 殊勝な顔にすっかり騙されてしまった。
「こうでもしないと、素直に聞いてくれないでしょう?」
 悪びれない遠藤の笑顔。
 どうやらこれは、彼なりの学習の結果のようだ。
「だからって」
 尚、抗議しようとした七海の声に、遠藤が台詞を被せる。
「それに!
 折角旅行に来て、一日布団の上で過ごすのも勿体ないじゃないですか。
 俺が運んで済むんなら一日担いででもどっか出かけたいですし!」
 そう言った彼は、まるで散歩待ちの犬の様にそわそわしていた。
 それでようやく気付いたのだ。
(ああ、そうか。
 こいつ、はしゃいでるんだ)
 見てくれが落ち着いて見えるのと、妙に悟ったところがあるのとで忘れがちになるが、相手はまだ若いのである。
 初めて来た、二人だけの旅行。
 まして、昨日までの重苦しい空気が取り払われた今なら尚更。
 はしゃぎたくなって、当たり前と言えば当たり前だ。
「しょうがないな。
 運ばれてやるから、落っことすなよ」
 ここは譲ってやるのが年長者と言うものだ、などと心の中で自分に言い訳をしながら、自分の身体を支えている腕をしっかりと掴まえた。


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+++ 目 次 +++

Scene.5 幻 覚 肥 大

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+++ 目次 +++ 

    本編
  1. 嘘の周波数
  2. Ancient times
    夏祭り SS
  3. 抗体反応
    After&sweet cakes SS
  4. 依存症 [連載中]
  5. 依存症 [連載中]
    ⅰ自殺企図
    渡辺教授
    空想科学
    疑似科学
    ⅴ幻覚肥大
    scene.1
    scene.2
    scene.3
    scene.4
    scene.5
    共鳴振動 NEW!
    番外編
  1. 真実の位相
  2. 二重螺旋
    企画短編
  1. 50000Hit記念
    Stalemate!? [完結]

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