5.温泉旅館『秀のか』/離れ  12月18日 AM0:37

 絡みつく口唇を伝って、熱が流れ込んでくる。
 皮膚が切れるほど冷たいはずの外気さえ、心地好いほどの熱。
(頭がクラクラする…)
 七海は身体ごとどこかへ持って行かれるような錯覚を覚えた。
 流されてしまえ。
 本能が囁く。
(………)
 ここには  
 ここには、誰もいない。
 誰の目も届かない。
  の、目も…)
 ここなら  
 大切な恋人が、自分の為に脅かされる事も、無い。

 その時だった。
 不意に枝から雪が落ちた。
 その音で、七海は飛び上がりそうになった。
 自分の中で頭をもたげようとしていた、妥協  みたいなものを、見透かされたかのようだった。
 身体強張らせた七海に驚いたらしく、その口を塞いでいた口唇が離れた。

     瞬間。

「……お前、むちゃくちゃだっ!」
 七海は遠藤の身体を思わず突き飛ばしていた。
 その勢いで跳ね上がった飛沫の向こうに、呆気に取られた様な顔が見えた。
 目の前で風船が割れた子供の様に、目を丸くして、遠藤が七海を見ている。
「………っ」
 言葉が出てこない。
 自分自身にも、今の行動の理由が分からなかったからだ。
「七海さん…?」
 体勢を立て直した遠藤が、七海の方へ手を伸ばそうとする。
 その手が届く前に、七海は湯の中から飛び出した。
「七海さん!?」
 遠藤の声を背に聞きながら、七海はその場から逃げ出してしまった。
 そして、満足に身体も拭かないまま浴衣を巻き付け、とにかく、露天風呂から一番遠い  寝間へ飛び込んだ。
(……っ)
 しかし、所詮は閉じられた離れの中のこと。  逃げ場など無いのだ。
 頭まで布団に潜るくらいが関の山である。
 いや、それ以前に、今度こそ呆れ果てた彼が、このまま帰ってしまうかもしれない。
(何をやってるんだ、僕は!)
 無茶苦茶なのは、自分の方だ。
 煽るだけ煽っておいて、この体たらく。
(いくらアイツだって呆れて当たり前だ…!)
 自分がしでかしたことは、敵前逃亡以外の何ものでもないのだから。
(最悪…)
 どう考えても最悪としか言いようがない。
 何故こんな愚行に走ったのだろう。
 真綿の布団の要塞に閉じこもる七海の頭を、たった今の出来事が頭の中をぐるぐる巡る。
 そんな堂々巡りをしていると、露天風呂へ続く開き戸の、微かに軋む音が聞こえた。
「…七海さーん…?」
 続いて聞こえてきたのは、もう一組の泊まり客を気遣って潜めたのだろう小さな声。
 そろそろと歩く足音が、七海の篭城している布団に静かに近づいてくる。
「七海さん…?」
 客間で、その気配は一度動きを止めた。
「…どこですか?」
 どうやら、暗がりの中で七海の姿を捜しているようだ。
 その足音が、寝間の前で止まる。
 そして。
 ゆっくりと、襖が開かれた。
(来た…っ)
 為すべき行動も分からず、七海はただ布団を掴む手に力を込めるのが精一杯だった。
  何、やってんですか。アンタは」
 襖の方  足下からいつもの声が聞こえる。
 呆れた、と言わんばかりの内容だが、その声音は穏やかだ。
「……こっ…こんな時まで、微笑ましげに言うなよ…っ!」
 憎まれ口を叩いている場合ではないのだが。
(こんな時まで、は僕の方だろ!)
 分かってはいるのだが。
 返すべき言葉は、やはり見つけられないままだった。
 しかし、それすら相手の方は意に介していない様子で、遠藤は、少しずつ枕許へと歩を進めてくる。
「そんな、布団に潜り込んだまま凄まれても  迫力無いですよ」
 声がますます近付いた。
 それと共に、七海の背中に、じわりと重みがかかる。
 掛け布団越しに、遠藤が覆い被さってきたのだ。
「〜〜〜重い…!」
「重い…だけですか?」
 探る様な声が耳に滑り込む。
 重いと言うのは、少々本気で言ったのだが  
「それだけじゃ、ないですよね…?」
 それだけでは、ない。
 耳から染み込む声が、甘い痺れの様に首筋を伝う。
「…息苦しい」
 身体に圧しかかる体重ではなく、本音を晒け出してしまった事実が。
 そして、何もかも見透かしている様な、彼の態度が。
「七海さん、いい加減  降参して下さいよ」
 低く圧し潰された声が、囁く。
「今日くらい、降参して下さい」
 年上を理由に、今まで余裕を振る舞ってきたと言うのに  
 七海には、もう切り札が無い。
(降参も何も)
 主導権も何もかも、すっかり相手の手中ではないか。
(僕は、とっくに…)
 ゆっくり掛け布団が引っ張られ、七海はとうとう手の力を抜いた。
 僅か一瞬で、七海と遠藤の間の柔らかな隔たりを、足下へと蹴り下ろされてしまった。
「…浴衣着るの下手ですね」
 そんな呟きと同時に、覆い被さる遠藤の手が襟の合わせに滑り込んでくる。
 慌てて適当に巻き付けただけの浴衣は、いとも容易く緩んでゆく。
 襟を引っ掛けたまま、その手はゆっくり七海の左肩を滑り、左の袖を引き下げてゆく。
「簡単にはだけちゃいますよ」
 囁く声。
 七海は、自分の頬が紅潮するのを感じた。
 襟を直そうと、上半身を浮かせる。
 無意味なその行動は、ほとんど反射だった。
 しかしその間隙を突かれ、今度は七海の両膝に彼の右膝が割り入ってきた。
  !」
 七海の腰に押し当てられた、熱の塊。
 いい加減にしか結ばれていなかった帯はすっかり緩み、浴衣の裾は気づいた時には捲れてしまっていた。
 下肢に下りてきた遠藤の手が、七海の肌に直に触れる。
「遠藤、…少し、だけ、待…」
 そう言ったのは、もちろん拒絶などではない。
「嫌です」
 そんな回答も、およそ、いつもの彼らしくない。
「遠藤…っ」
 その性急さに、戸惑っていた。
「言ったでしょ? 降参して下さい…って」
 ますます低くなる、声。

    怖い。

 これから、どうなってしまうのだろう。
 自分で求めていならが、本気で欲されると言う事が  
 これほど怖いとは思いもしなかった。

 何度も、何度も、繰り返し肌を重ねてきたと言うのに  
 七海の中へ流れ込んできたのは、触れた場所が焼き切れるてしまいそうな熱量。
 それは到底、夢心地などと生易しいものではなく。
 何もかも手札を開いて  初めて触れた、要がオブラートの中に包み隠していた彼の核。
(こんな  
 こんなものを、身のうちに押し殺していたのか。
 今、自分の身体をかき抱く男の内に秘めていた『本気』の意味が、ようやく分かった  ような、気がした。

 解けた帯と浴衣が絡み付き、四肢が思う様に動かせない。
 背筋を伝う口唇と、下肢を撫で上げる掌。
 乱れた呼吸が、夜の静寂を揺らす。
 何度も、何度も、繰り返される行為の中  薄闇の隙間から洩れ聴こえた声は、夢か、現か、それとも願望か。

     ……き……

     …好き…です…

      ずっと、傍にいて下さい  

「…僕も」
 その時、自分は本当に言葉に出来ていただろうか。
 自分も同じだ、と。
「…………」
 言えた  だろうか。

 七海の記憶は、そこで途切れた。

scene4.疑似科学 了

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+++ 目 次 +++

Scene.4 疑 似 科 学

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