4.温泉旅館『秀のか』/露天風呂  12月17日 PM11:10

 露天風呂は、やや高めの湯温だった。
 季節柄、そうしているのかもしれない。
「さすがに寒いなー」
 胸まで湯に浸かりながら七海が呟いた。
 夜空に向かって洩れた言葉が、一瞬で白く凍る。
 湯の温かさにほんのり上気する肌が、艶っぽい。
「そうですね」
 要は、相槌を打ちつつ目の遣り場を探す。
 気取られると、今更見慣れてるだろうと、揶揄われそうな気がした。
「何キョロキョロしてんだよ? さっきから何か落ち着かないな」
 訝し気に、七海が要の顔を覗き込んできた。
 湯の跳ね上がる音が、夜の静寂に響く。
 至近距離に近付く顔。
(うわ…っ)
 濡れ髪。
 水滴を含んだ睫毛。
 月明かりに浮かぶ、青いコントラスト。
 この非日常的な舞台設定は、要に対しては確かに効果を奏している様だ。
(けど、これは  正直、キツイ…かもしれない)
 そもそもこのシチュエーションを作ったのは誰だ、と考えると少々理不尽な気がしないでもなかったが、当の本人がそれに気付いていないのだからタチが悪い。
 それでも、ここは何とか気を逸らして、自分を欺くしか無いのが、惚れた弱みのツライところか。
「あ、あの!」
 そうして飛び出した声は、思いの外大きくなってしまった。
「しーっ」
 眉根を寄せた七海が、人差し指を立ててそれを咎める。
「いくら離れでも、こんな時間だし屋外なんだからな」
「すみませんっ」
 慌てて口を抑える。
「それで、何?」
 更に七海が詰め寄ってきた。
(しまった、肝心の話題を何も考えてなかった!)
 熱い湯に浸かりながら、冷や汗をかきそうになる。
「えー、その…。そうだ! 結局、さっき七海さんが言ってた話って、何だったんです?」
 これ以上近付かれると、糸の様に痩せ細った理性の危機。
 思わず、両肩を掴み留めてしまった。
 それを口にした途端、七海がトーンダウンした。
「ん? あぁ…、さっきのか」
 そして、ほんの一瞬、戸惑った様な表情を浮かべ、目を伏せる。
「………?」
 自分から言い出したと言うのに、この歯切れの悪さは増々珍しい。
「んー…。自分で切り出しといて、何だけど…しなきゃ駄目なのかな?
 とか、まだ迷ってたりも  するんだよな」
 伏せた目が、今度は苦笑に変わる。
「何ですか、それは」
 ここまできて、それはないだろう。
「でも、僕もお膳立てしちゃったしな…。遠藤、どうしても気になる?」
「そのために、遠出したんでしょ? そりゃ、気になりますよ」
「………だよなー」
 七海が、半分諦めた様な顔で深く息を吐く。
 そして、再び要に向き直った。
 否応無く、要の手に力が入る。
 鼓動は大きくなり、耳鳴でも起こしそうだった。
「僕は、お前に一番大事なことを隠してる」
 真っ直ぐ向けられた視線はいつもより真剣で、怯みそうになる。
「一番、大事な…こと、ですか?」
 一体それはどんなことなのだろう。
「…そう怖い顔するなって。
 心配しなくても話を聞いた後、選ぶのはお前の方なんだから」
 七海の言葉が、不思議だった。
「選ぶって…俺、ちゃんと選んでますよ?」
 今、ここにこうしているのだって、自分自身で選んでいる。
「どうかなぁ…。どっか流されてないか? お前」
「は?」
 流されてますか、と質すべきか躊躇していると、七海が苦笑しながら要の頬をぴたぴたと叩く。
「ま、いっか。ヤメだ、ヤメ! せっかく遠出したんだから、やっぱり素直に楽しもう」
 要の両の頬を強く挟んで、七海は悪戯顔で笑った。
(この状況はもしかして、違う方向にヤバいのか……?)
 彼のそういう態度には、既視感があった。
 そうだ。
 今までにも何回かあったのだ。
 何かを言いかけては、引っ込める様な遣り取りが。
(あれは、単に揶揄われてんだと思ってたけど)
 本当のところは、七海は七海なりに伝えたいことがあって、でもそれを告げられず、誤摩化していたのかもしれない。
 今日は、到底七海らしくないお膳立てなどして。
(この人なりの決意をして  
 自分と同じ  もしかしたら、それ以上の不安を抱いて。
(ここまで来た…)
 それでもまだ踏ん切りをつけられず、今もまた揺れている。
 だとしたら、ここではぐらかされてはならないのだ。
 その時、要の両の頬を挟む掌は、湯で温まっているはずなのに、いやに冷たい事に気付いた。
 それを静かに外して、七海の身体に両腕を回す。
「当てはまる言葉なのかどうか分からないですけど、俺は俺なりにケジメとか考えてるつもりです。
 だから、今日はちゃんと話して下さい。その為に、ここにいるんじゃないですか」
 今、ここで彼の本音を訊き出せなければ、そう遠くない未来に、この関係は枯れてゆくのだろう。
 ならば、ここで引いてはいけない。
「……やっぱり生真面目だな、遠藤は」
 要の身体を押し戻し、七海が深い溜息を吐いた。
「いや、生真面目とかじゃなくて  
 それに対して要は抗議をしようと口を開く。
「生真面目だよ、お前は。未だに、同性の僕とこういう関係になって、その事に未だに引け目を感じてるだろ?」
 真っ直ぐ合わせてくる双眸には、諦めの様な、呆れの様なものが含まれていた。
「引け目なんかないですよ! ただ、さっき言った通り、このまま続けて行くには、いずれかケジメなり形なりつけるべきだろうと考えてるだけです」
 この先へ進む  或いは、継続させたいと思うなら。
 いつまでも家族にも黙っていられないのだとか。
 それは自分だけの問題ではなくて、相手の家族関係にも関わるのだとか。
(特に、渡辺教授は、避けて通れない関門だ)
「こんな事になった以上、男として責任取らなきゃ  ? 時代錯誤だ」
 シニカルな微笑。
 そして、七海は話を先へ進めた。
「僕は、お前のそういう性格につけ込んでるんだ」
 自嘲するように、七海が口唇の端を微かに歪める。
 それは、要の腕の中で時折見せる、泣き出しそうな顔とよく似ていた。
「つけ込んでる?」
「遠藤は、自分の方が僕に対して無理させてるって思ってるのを、僕は気付いてた」
 それは、確かに考えない訳ではなかった。
 だから今は、せめて許されている範囲で、無理はさせないと決めていたりもした。
「だからお前は、僕のわがままに付き合ってくれてる。
 僕は、気付かないフリをしてそれに甘えてる。  でも違うんだ」
 七海が顔を俯ける。
「違うっていうのは、一体何が違うんですか?」
「僕は、もともと同性にしか興味が持てない。
 僕にとっては、これが普通の恋愛なんだ。
 だから、お前は僕に対して何も負い目なんて感じなくていいし、責任も考えなくていい。
 僕たちは対等なんだから。
 いや、もしかしたら僕の方が立場弱いかな」
 きゅっ、と、七海の手が要の腕を掴んだ。
 そして、更に言葉を重ねる。
「何回も言おうと思ったんだけど…なかなか言えなかったんだ。
 卑怯だって思いながら、お前の誠実な部分に甘えて。
 そんな自分を分かってたから、ちょっとノーを出しただけで言いなりに引っ込むお前が、却って冷たいように感じたりして  
 不意に言葉が途切れた。
 顔を伏せてしまっている為、表情は読めなかった。
「そんな事くらいで、何も変わりませんよ」
 七海の一番大事な隠し事は、意外な程シンプルなものだった。
「かもしれないけど…。
 少なくとも、朝日の事があった時に白状しとけば良かった。
 でも、こっちが譲ってやってるんだ、って姿勢を崩せなかった。
 それは、とても  卑怯だ」
 そう言って腕を掴む指先が、微かに震えている。

  そうか。

(この人は、潔癖なんだ)
 自分のささやかな甘えさえ、許せないほど。

  『七海先輩は、可愛いでしょう?』

 不意に綿貫の言葉が蘇った。
(本当に)
(これは…ちょっと)
(ヤバいくらい、可愛い)
 改めて実感させられた
 甘やかされる事も不安になるくらい、真っ直ぐ自分の方を向いていてくれている。
「俺は、アンタのそういうところが好きなんですけどね」
 自覚した途端、その台詞が口から滑り出ていた。
 考えた事もなかったが、そうなのだ。
 惹かれたのは、おそらくこの潔癖さ。
「ちょっと融通が利かないとこが玉に瑕ですが」
「なっ、お前に言われたくないぞ!?」
 弾かれたように、七海が顔を上げた。
 少し目が赤いように感じるのは、おそらく気のせいではないだろう。
「でも、冷たいってそういう意味だったんですね」
 要の言葉に七海が頷いた。
「何か、そういう態度って壁を感じるんだよな。
 こっちばっかり必死で、お前ばっかり余裕でさ」
「いや、そりゃ誤解です! やっぱり、嫌われたくないからそうなるんじゃないですか」
 余裕などあるものか。
 精一杯背伸びをしていたのだ。
「ごめん…贅沢かもしれないけど、いつも僕に合わせって引くんじゃなくて、たまには強引にきてもいいだろ、って」
 ふいっと逸らした視線が隠しているものは、彼の中の幼さ。
 そのギャップが、とても愛しい。
 だから、要はいつも背伸びをしてしまう。
 その顔が、見たいから。
「お前の相手本意は、度が過ぎてて…却って不安になる」
 眉間に皺を寄せて、七海が零した。
「そうしたいんですから、仕方ないじゃないですか。
 七海さんが俺のそういう性格につけ込んでるんだって言うなら、俺はそこにどんどんつけ込んで欲しい人間なんです」
 要の顔に向き直った七海が、心底呆れた顔をした。
「お前ね…」
「ところで、今の流れでいくと俺は我慢しなくていいって事ですよね」
 切なくもお預けを喰らっている身。
 しかも、結構長期間。
「えっ、ちょっ、だ…駄目! 今は我慢!」
 七海の手が要の腕から離れる。
「嫌です」
 きっぱり言ってやった。
 いつもと立場が逆だ。
「〜〜〜〜〜っ。
 これだから子供は…!」
 七海が潜めた声を荒げる。
「ややこしい声で怒らないで下さいよ」
「おっきな声出せないだろっ」
 眉間に皺を寄せつつ、その声はやはり小声。
 確かに。
 いくら本館と離れているとは言っても、この静けさの中ではよく響くだろう。
「こらっ! 公序良俗はどこいった! 離せって!」
 ひたすら小声で抵抗を続ける七海。
「嫌ですってば」
 逃げる手を捉まえる。
「社会責任はどうし…っ」
 七海の肩を捕まえ、うるさく抗議する口を塞ぐ。
「そ…いうの、が…っ、子供…て…」
 抗う言葉も途切れがちになる七海。
 瞬く間に、その身体から力が抜けて行くのが分かった。

 瞬間  

 離れの庭のどこかで、木の枝から雪が落ちる音が響いた。


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+++ 目 次 +++

Scene.4 疑 似 科 学

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