Scene.4 疑 似 科 学

1.レジデンスR―1101号室/12月17日 PM1:40

  時間は遡り、再び午後1時頃。

 要は一人で七海の部屋に帰ってきていた。

 一人で帰るこの部屋にも、いい加減慣れた。
 靴を脱ぎ、室内へ入ると、まずは持ち帰った洗濯物をカゴに放り込む。
 そして、いつもの場所に鞄を置く。
「いつもの場所、か」
 気付いたら、要の私物の置き位置が決まっていた。
 ベッドサイドの小さなPCデスク、
 その横に置かれた箱。
 どちらも七海が買ってきたものだ。
『モノを食べるところで仕事するんじゃない』
 七海が、仁王立ちで要を叱責した翌日にそれらは届いた。
 そんな言い方は、彼の癖だった。
 非常に照れ屋で、口下手で、感情を表すのが苦手な人。
 親しくなればなるほど、どこか素っ気なくなっていく。
「そんな人なのに、妙に大胆で  
 いや、それだから行動が大胆になるのだろうか。
 気持ちを上手く言葉に換えられないから  
(って、そんな事考えてる場合じゃねえのに…)
 本当なら、持ち帰ったデータを整理しなければいけない。
 七海に課された宿題もある。
 愚にもつかない事を考えている場合ではない。
 けれど、どうにも手に付かなかった。
 仕方なく、要は床にごろんと転がった。
 視線を移すと、窓の向こうに青空が見えた。
 薄雲が、ゆったりと流れている。
 氷晶の集合体が空一面を薄く覆う、絹層雲。
 この絹層雲は上層雲の一つで、低気圧の前面で発生することが多い。
 通称、アメシラス。
(明日は、下り坂か)
 光の粒が、氷晶の層の中で乱反射を繰り返す。
 室内は、1月とは思えない暖かさ。
 気持ちの好い午後だ。
 瞬く間に睡魔に襲われる。
 自然と瞼は落ち、意識は空の向こうへ。
「…ふあ」
 このまま寝てしまったら、風邪を引く。
「眠み…」
 分かっているのに、もう動くのも億劫だ。

 結局、要はそのまま眠り込んでしまった。
 次に目覚めたのは、もう日も暮れた後だった。
 要を起こしたのは、携帯の着信音。
「…携帯、どこ…置いたっけ…」
 目をしばたかせながら、音のする方向を手で探る。
「あー、そうだ。鞄の中にしまいっぱなしだった…」
 諦めて、要は身体を起こした。
 鞄のサイドポケットに入っている携帯を手に取る。
「七海さんだ…!」
 彼はあまり多い回数コールしてくれない。
 大抵は、5回もコールすれば切ってしまう。
  ので、動揺した要は思わず携帯を落としてしまった。
「わ、わわっ! 待て、まだ切れるなよ!?」
 慌てて拾い、通話ボタンを押す。
「七海さん?」
 良かった。
 間に合った。
『うん』
「良かった。仕事、普通に終わったんですね」
 手許に携帯があるという事は、七海の場合病院の外という事だろう。
『ああ』
  ?)
 妙に元気が無い。
「それで、どうしたんです? もう外ですよね?」
 どうしたのか、と思いつつも会話を続ける。
『うん。外って言うか、もうマンションの下なんだけど……』
 七海から返ってきたのは、ますます分からない答え。
「へ? 何で上がって来ないんです?」
 何してるんだ、と思わずベランダへ出て、下を覗いてしまった。
 遥か下に、米粒サイズの頭が一つ見える。
 その頭は、同じ場所で数歩ほどの距離を行ったり来たりしていた。
『ああ、うん。…そうなんだけど。  遠藤、今、外出れる格好してる?』
 ピタリと七海の頭が止まる。
「え? ええ、まあ。出れますよ」
 外に出れる格好はしている。
 何せ、仕事から帰ってそのまま転寝してしまったのだから。
『これから、出掛けないか?』
「え?」
 七海の口から飛び出したのは、思いがけない台詞だった。
『遠藤?』
 こちらを窺う様な七海の声。
「すみません、珍しかったんで…驚きまして』
 だから、一瞬返事が遅れてしまった。
 七海の方から外出しようと言い出す事自体、青天の霹靂と言って良い。
 ましてや、病院から自宅までの徒歩5分も無い帰路で電話を寄越すなど、普段ならあり得ない。
『いきなりだし、遠藤が疲れてるなら全然無理しなくていいよ。ただの思いつきだから』
 それを、彼はこちらの婉曲な拒否と受け取ったらしい。
 そうではなく、あまりにも珍しいことが連なったので驚いていただけなのだが。
「………」
 しかし、要もまたそれに対する弁明がすんなり思い浮かばなかった。
(どう言ったらいいかな。
 つか、変に色々言っても、気遣ってるって思わせちまうしな…)
 答えに詰まっていると、七海の頭がふらっとマンションの前から移動し始めた。
(あ、ヤバい! このまま黙ってたら部屋に上がって来ない気だ!)
 何だか分からないが、とにかく止めよう。
「いえ、大丈夫です。すぐ下りますんで、待ってて下さい」
 そう告げて、そのまま要は部屋を飛び出した。
(変だ)
(おかしい)
 らしくないことばかりだ。
 胸騒ぎが強くなる。
(いつからだ?)
(いつからあの人は  それとも、俺が?)
 いつから、こんなぎこちなくなっているのだろう。
 大事なことを言えなくなって、その分だけ気まずくなって、何とか隙間を埋めたくて、無理をして、更に状況が悪くなる。
(こんな悪循環、いつから繰り返してた?)
 そんな長い時間ではない。
 物事が悪い方へ転がる時と言うのは、存外短い時間なのだ。
 不安の芽というのは、ひとたび土壌に落ちれば一瞬で芽吹き、それまで大切に積み上げてきた全てを絡めとって吸い尽くす。
「あーもう! 何でこんな時に限ってエレベーターがなかなか来ないんだ」
 上がってくるエレベーターは、複数の階の住人を乗せているのだろう。
 何度も止まり、なかなか11Fまで上がって来ない。
 ようやく到着したエレベーターに飛び乗り、1Fのボタンを強く押す。
(頼むからちゃんとマンションの前にいてくれよ!)
 居るものなら、神様にでも手を合わせたい気分だった。
 エレベーターの扉が開き切るより前に駆け下り、エントランスを飛び出した。
 七海の姿を目で探す。
 彼は、エントランスより少し離れた植え込みの前で立っていた。
(良かった…ちゃんと居てくれた)
 大げさだと笑われるかもしれないが、要は、この夜が転機の様な気がしてならなかった。
 この機会を逃してしまえば、それは二人の決定的な歪みになるのでは、と感じていた。
「七海さん、お待たせしました」
 胸騒ぎと、いつにない緊張感。
 そんなものを押し隠して、精一杯普通の顔で、声で、要は七海に声を掛けた。
「急に、ごめん」
 振り向いた彼もまた、少し緊張している様な面持ちだった。
「いえ、嬉しいですよ。誘ってもらって」
 嬉しい。
 それは本音だが、このタイミングで何故?
 そんな疑問を感じているのも、本当だ。
(こんな歯切れの悪い七海さんを見るのも、かなり珍しいし)
 こういう状況は学生時代に何度か味わった気がする。
 それは大抵、別れ話  なのだ。
 大体フラレ文句も決まっていた。
『これからも良い関係でいたいの。
 だから、嫌いにならないうちに終わりにしましょ?』
 何だ、そりゃ。
  と、その度に釈然としない気分になった。
 早い話が、飽きられたと言う事なのだろう。

 もしかして、この人も?

 もし。
 もし、そうだったら。
 頭の芯が冷たくなるのを感じた。
「遠藤?」
「はっ、はいっ?」
 よほど変な顔になっていたのか、七海が訝しげに要の顔を覗き込んでいた。
「お前、急に異次元に旅立つなよ。僕が置いてけぼりになるじゃないか」
 軽く睨まれてしまった。
「すみません」
 勝手に想像で青くなっていても仕方ない。
 要は一旦気分を切り替える事にした。
 せっかく二人きりで過ごせるのだから、目の前の現実にまず感謝しよう。
「で、どうする? どこか行きたいところあるか?」
「え、俺っすか? 七海さんこそ、どこか行きたいところあったんじゃないんすか?」
「う…ん、行き先は、まあ、どこでも良かったんだ、実は」
「え?」
 七海が外出したがる時と言うのは、概ねお目当ての何かがある時だ。
 だから、今みたいな事は本当に珍しい。
「たまには、日常離れてゆっくりしたいなぁとか  
 こんな事を言い出すのも珍しい。
「確かに。ここんとこ、本当に忙殺されてますよね」
 相槌を打ちつつ、続く言葉を待つ。
「あー、そうじゃなくて…」
 ほとんど独り言の様な声量で呟き、七海が目を逸らした。
「はい?」
 それに続いた言葉は更に小さな声で  
「…ゆっくり、話がしたい  かな、と、思って…」
「え?」
 思わず聞き返してしまった。
「お前と、ちゃんと話したい」
 すると、もっと小さな声が七海の口からぽつりと洩れた。
「え」
 本当に、普段の彼から飛び出さない様な言葉が、次々と羅列する。
 その顔は紅潮している。
 そんな七海に、要はまたもや返事に窮してしまった。
「いや、いい! 忘れろ!
 夕飯! 夕飯食べにいこう、とりあえず!」
 遂に七海はそんな要に背を向け、スタスタと歩き出してしまった。
「待って下さい!」
 慌てて、七海の腕を掴んだ。
「待って、七海さん。
 俺もです。俺もちゃんと話したい事があるんです!」
「………。
 お前も…?」
 振り向いたその顔は、何故かどこか怯えている様な表情だった。
「はい。
 ホラ、このところ時間が合わなくて、なかなか話が出来なかったでしょ?」
 そう言いながら、要もまた怯んでいる。
 このような場面を迎えると、その後大概相手の方が冷めてしまい、終わってしまうのだ。
 転機は不意に姿を現し、選択を迫る。
 凡そにおいて、要は間違った選択肢を選んでしまうのだろう。
 そして、愛想を尽かされるのだ。
「そっか…。うん…それじゃ、ちょっと遠出しようかな。
 この周辺じゃ、誰に会うか分からなくて、気も休まらないし」
 七海の表情は、少し途方に暮れた様な、今にも泣き出しそうな、そんな顔だった。
 出会った頃から彼は、時々この表情を覗かせた。
 腕の中にいる時にも、何度かそれは見た。
 ずっと訊きたかった。
 七海の心を押し潰しているものが、何なのか。
 今夜なら、それを訊ねる事も出来るだろうか。
  じゃあ、車出そうか。
 明日は時間を気にせずにいられるし、たまには都内を離れるのも良いかもしれない」
 七海が、くるりとマンションの駐車場の方へ身体の向きを変えた。
「車…。あの、七海さん…つかぬ事をお伺いしますが、年に何回くらい運転するんです?」
 通勤時間徒歩5分。
 買い物はほとんど通販か、マンション1階の売店。
 基本的にインドアな生活で、オフもほとんど自室で過ごしている。
 一応免許を持っている事も、一応車があることも知っている。
 しかし、これだけ多くの時間を共に過ごしていながら、要は七海の車を見た事が無い。
 車種どころか、色すら知らない。
 つまりその搭乗回数は  
「年2〜3回は運転してるよ。ディーラー点検の時は一応自分で運転していくことにしてるし、年一回くらいは里帰りしてるし  
 さらっと、恐ろしい答えが。
「年2〜3回って…ほぼペーパーでしょうが!」
 要は、これでも意外と運転している。
 自分の車というのはまだ持っていないのだが、研修医仲間との飲み会では、当番制でハンドルキーパーが回ってくるからだ。
「でも、ゴールドなんだぞ?」
 七海が、子供の様に頬を膨らませた。
「それは! アンタがペーパーだからです!!」
 運転しなければ事故は起きない。
 違反にも引っ掛からない。
 即ち、減点される事が無い。
 当然、ゴールド免許と言う訳だ。
「分かったって、そうがなるなよ。
 じゃあ、どうする? 電車で移動は面倒だぞ?
 いっそタクシー使うか?」
 確かに、都内脱出を目論んでいるとしたら電車は少々面倒だし、移動のロスも多そうだ。
「タク使って他県に移動したら、それだけで結構な金額になっちゃいますよ。俺が運転します」
 人様の車を運転するのは、事故だ何だと考えるとリスキーではあるのだが、ペーパードライバーよりは幾らかマシだろう。
「まあ、運転したいんだったら、別に良いけど…。
 寝不足気味だし。じゃあ、行きと帰りで交代にするか?」
「喜んで運転させて頂きます。何なら、復路も代走承ります」
 (高速+凍結道路+寝不足)×ペーパードライバー。
 最悪の方程式が、頭にのしかかる。
「そんな運転好きだったっけ? まあ、いいけど。はい、キー」
 七海は、すんなり要にキーを渡した。
 彼はあまり運転そのものに執着が無いようだ。
(まあ、執着があったらもっと運転してるよなぁ…)
 その上、自分の運転能力が疑われている事に彼は、微塵も気付いていないらしい。
 薄いカード型のキーをシャツの胸ポケットにしまい、七海と肩を並べて駐車場へ向かった。
 しかし、怪我の功名とでも言うのか、この遣り取りのおかげで本来の調子が少し戻った気がする。
 だとしたら、滑り出しとしては上々なのかもしれない。
「僕の車は、そこの黒いの」
 と、七海が指差したのは彼らしからぬ厳つい印象の車体だった。
「レクサスの、黒…ですか…」
 その筋の方々が好んで乗る類いの車種で、その中でも黒は喧嘩を売られやすい色と言われている。
(しかも、ご丁寧にスモークガラスだし)
(これは煽られる…絶対、煽られる)
 要は、代走を引き受けた事を、少し後悔しかかっていた。
「アンタ普段運転しないくせに、何だってこんなケンカ売られやすい車買っちゃったんですかっ!」
「自分で選んでないから、仕方ないだろ」
「はい!?」
「これ、教授が去年今の車に乗り換える時に格安で回ってきたんだ。
 まだ一回目の車検も来てないヤツだし、長野まで帰るのに、エンジン強い車が良かったし、ちょうど良かったんだから良いじゃないか」
「教授の…ですか」
 どうりで厳つい…。
 しかし、このマンションと言い、車と言い、渡辺教授はどれだけ七海に甘いのだろう。
(ちょっと、過保護…つか、過剰な気も…)
「こーらっ、なに呆けた顔してんだ」
「痛てっ!」
 七海に思い切り両頬を掴まれ、彼の方へ顔を向かされた。
 要の顔を、七海が睨んでいる。
「出掛けるんだろ? 車なんかなんだって良いじゃないか」
 左腕を掴まれ、引き寄せられたかと思うと、口唇の端を掠める様なキス。
「ちょっ、ここ…!」
(住んでるマンションの駐車場!)
「昼間の仕返しだ。
 そんなのより早く出よう。
 その…せっかく、二人でゆっくりできるんだから」
 少々膨れ面になったその顔は耳まで赤くなっていて、それが妙に幼くて可愛い。
(なんて言ったら、今度は蹴り入れられるだろうけど)
「!  何ニヤけてんだよっ! ほら、乗った乗った!」
 蹴りは入らなかったが、運転席に押し込まれた。
「はいはいはいっ。それで、どこに行きますか?」
 運転席に座り、シートベルトを留める。
「そうだなー。
 せっかくだし温泉付きの旅館とか?」
「予約無しでいけますかね?」
「スキー場の側じゃなきゃ、どうにかなるよ」
「そんなアバウトな…」
「反対に考えたらいいだろ。見つかったらゴールとか」
 七海の声は、冗談半分、本気半分だった。
「まあ、それも有りですかね」
 要の同意を得た七海が、思い出したように「あ」と呟く。
「ただし、移動半径1時間以内厳守だからな!」
 七海の人差し指が、要の鼻をびしっと押さえた。
 常に緊急の招集を想定範囲内に置いて行動、と言う訳だ。
「ちょっとハードなルールですが、面白そうですね」
 たまにはそんな無計画も良いのかもしれない。
(でも、良かった。
 これなら普通に話が出来そうだ)
 気付かれないように小さく息を吐き、エンジンキーを回す。
 七海はカーナビに適当な方角と、温泉旅館というキーワードを入力していた。
 どうあっても『温泉』は外せないらしい。
 検索は七海に任せて、要はアクセルを踏む。

 いよいよ車は、駐車場から屋外へ滑り出した。


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