5.レジデンスR/1101号室  12月16日 PM11:50

 明度の無い部屋は、彩りを失い、窓から入る微かな夜の灯りが、その肌を薄青く浮かび上がらせている。
 赤味の無い画はどこか非現実的で、生々しさを喪失していた。

 ベッドの軋みと、シーツの擦れる音が、静かな室内に染みている。
 違和感は、拭い去れないまま  
「…は、…ぁ…っ」
 七海が、詰まった息を吐いた。
 薄闇の中、微かに目の淵が濡れている。
 その目蓋に、柔らかく口接ける。
「……っ」
 瞬間、喘ぎとも、呻きともつかない声が洩れた。
 眉根を寄せ、何かを堪えている様な顔は、苦しげにも、艶かしくも映る。
 その表情に、煽られ  
 一息に、身体を押し進めようと、した。

 しかし。

「…七海さん」
 耳許に口を寄せる。
 要の腰に絡みつく七海の下肢が、硬直するのを感じた。
 これでは、先へ進められない。
「あの…」
 強張る膝を宥める様に撫でながら、もう一度耳許で囁く。
「七海さん、もう、少し…力、抜けないですかね…?」
 いつも、要を受け入れてくれた身体が、それを拒んでいる。
 柔らかいはずの肌触りがひどく固い。
「そんなこと、言われても…っ」
 掠れた声は、悲鳴に近い。

 分かっている。
 わざとではない事くらい。
 彼が自分の意思で拒否しているのではないことくらい。
 それは  
 違和感を感じながら、それらを全て無視した要自身が招いたものだ。

(分かってる  のに)

 それでも、それを分かっていても尚、本能は、その先を求めたがっていた。
 それは、焦り  だったかも、知れない。
 とにかく、いつもの七海を、取り戻したかった。
 それしか、考えられなかった。
 だから  
 七海の生々しい痛みが、その瞬間、映らなかった。
 しかし、大きな荒い息を吐いて、一呼吸。
 闇に慣れた目が捉えたのは  

 鬱血した、手首。
 強く掴み過ぎていたのだ。

 慌てて、手を離した。
 身体も、離した。

「……? どう、した…?」

 固く閉じていた目が、開く。

「すみません、手に跡が…」
 気付いてなかったのか、言われて七海が自分の右手首に目を落とす。
「ああ…」
 あまり興味の無い声で答えて、今度はそれを反対の掌で軽く擦った。
「あの  すみません」
「いいよ、これくらい。
 それより、何で止めたんだよ」
 まっすぐ要の顔を見上げ、七海が問う。
 それは、少々非難めいた声音だった。
「え、いや…何だかしんどそうですし…」
 硬くなっている身体を、無理に  と言うのは、どうだろうか。
 この時には、さすがに我に返っていた。
 ところが  
「そんなの  捻じ伏せてしまえば良かったのに」
 七海の言葉は、要の思う所を根底から否定した。
「何、馬鹿なこと  言ってんですか」
 一瞬、相手が何を言ったのか分からなかった。
「馬鹿な事  かな」
 要の言葉に、七海が、心底不思議そうな顔をした。
「だって、そんなの…そっちが痛いだけじゃないですか」
 要には、七海の台詞こそ信じ難いものだった。
「でも、僕は嫌だなんて  言ってない」
 すぐさま、七海は反論してきた。
「言って無くても…!」
 それにまた、要も言い返そうとして、途中で、引っ込めた。
(ヤバイ、これじゃ…)
 喧嘩になってしまう。
 しかし、要の表情をどう取ったのか、七海が溜息を吐いた。
「…何て言うか、お前はそういうところが冷たいよな」
 そして  また、冷たいと言われた。
「は…っ?」
 理由が分からない。
 どうして。
 そんな疑問を質す間も無く、七海が言った。
「キモチとカラダが上手くリンクしない時って、あると思わないか?
  なんて、お前に言っても、多分……分からないんだろうな」
 その言葉と共に口端に浮かんだのは、やや自嘲めいた笑み。
「…え?」
 要は、七海がどうしてそんな顔をするのか、全く分からない。
 その要の表情に、今度はそれが溜息に変わる。
「まあ、いいや。ヤらないんなら、もう寝よ」
 そして、七海は要に背を向け、さっさと眠る態勢に入ってしまった。
「え? ちょっ…」
 布団を深く被り、彼は背中を丸めた。
 まるで猫みたいに。
 要には、それ以上掛ける言葉を見つける事が出来ない。
 いつでも、七海のことを考えてきたつもりだった。
 たった今だって、無理にでもしてしまいたい衝動を堪えたのは、相手の負担を考えたからだったのに  

 それが  

(どうして…)

 冷たいなどと、思われてしまうのだろうか。

 頑なな背中を、じっと見詰める。
 どちらかと言えば、細い背中。
 この1年、追い続けてきた背中。
 そして、何より  愛おしい背中。
 要は、その背中に自らの身体を沿わせた。
 そして、そっと腕を回し、出来るだけ柔らかく抱き締める。
 触れた瞬間、彼の身体がぴく、と反応した。
 振り払われたらどうしようか、と一瞬不安になったが、巻き付けた腕を、七海は握り返してくれ  
 それで、やっと安心感を得た要は、ようやく目を閉じた。

 胸の上に重ねた掌に伝わる、今は穏やかな心音。

 そして。

 静寂な時間が幾らか流れた後、独り言のように小さな呟きが、眠りに落ちかかっていた要の耳を掠めた。
「…ごめん」
「…? どうしたんですか?」
 何を謝られたのか、分からなかった。
「いや…その…」
 問い返された七海が、答え辛そうに口篭る。
「?? はい?」
「……だから、…その…できなくて……」
 小さい声が、ますます小さく今にも消え入りそうなボリュームになり、届いた言葉は  
「はあ? って、何でそんな事気にしてるんですか?!」
 思わず相手の肩を引き寄せ、背後からその顔を覗き込んだ。
 しかし、彼はすぐに顔を逸らして、その表情を読み取らせてはくれなかった。
「自分でさっき言ってたじゃないですか。コンディションでしょ、そんなの…」
 さっきは煽られてしまい、つい、無茶をしそうになったが。
(やっぱり、無理にしなくてよかった、と思う……)
「分かってる。…分かってるんだけど」
 焦れた様な、焦っている様な、呟きが、七海の口から洩れる。
「そんなんじゃ、なくてさ  
 もどかし気な声が要の頬を引っ掻いた。
 しかし。更に数秒沈黙した後、躊躇いがちに彼は言葉を付け足す。
「これじゃ、ほとんど八つ当たりだよな。…ごめん」
 八つ当たり。
 つまり、要ではなく、他に何か彼を悩ませているものがあるという事か。
 要には、それが一体何なのか、まるで見当がつかなかった。
「気にしてません」
 と言えば、少し嘘になる。
「でも、俺、確かに頼りないですけど…出来たら、もう少し頼ってくれたら、と思います」
 冷たい、などと言わせないためにも。
「うん…そうだな」
 その要の言葉には、意外なほど素直な返事が返ってきた。
「…もう、寝ましょう。明日も、勤務ですから」
 もう一度背中から回した手で、七海の頬を軽く撫でる。
「ん…」
 その手に、七海の手が重なる。

 そして、彼の静かな呼吸が手に触れるのを感じながら、要は、眠りに落ちていった。

 久々の当直勤務。
 小田切は溜息を吐いた。
「このトシになると、徹夜は疲れるねぇ」
 宵の口から引っ切り無しに続いた救急搬送は、数え切れないほどの件数。
 そのうち、手術適用患者は7件。
 他科からお預かり中の研修医達をフル回転させ、病棟に頭を下げ倒し、ICUに空きベッドを確保し、どうにかそこにご新規さんを押し込んで、やっと手術室から医局に戻ってきたばかりだった。
 ようやく人心地と言うところか。
 窓のブラインドから、細く光が洩れ始めている。
 夜明けだ。
 壁掛けの時計に目を遣れば、既に朝の6時半。
「ったく、仮眠するほども時間がねえじゃねぇか」
 くしゃくしゃと髪を掻き毟り、どかっと長椅子に腰を下ろした。
 敬愛すべき部長殿より、ER医局長たる、有難くも重々しい肩書きを戴いてから、小田切の生活は一変してしまった。
 元々、胸部外科の医師として長く勤務していた小田切。
「正直、心臓を切る以外のことは、あんまし得意じゃないんだがね」
 天井を仰いで、溜息を吐く。
 胸部外科医をしていた頃は、手術と言うのは比較的予定されているものだった。
 例え、緊急で受け入れたとしても、胸部心臓外科の範囲内の患者のみだった。
 それが、この現場はどうだ。
 脳外科、消化器、精神疾患  
 専門なんぞお構い無し、予約オペなど有り得ない。
 しかし。
「あー、くそ。この状況で、何充実してんだ、俺は」
 クタクタに疲れていたが、久々に満足もしていた。
 医局長と言う名の冠を被ってから、何より変化したのは、切る回数だ。
 圧倒的に減った。
 人手不足の部署だけに、現場から完全に離れることはないものの、当直の数も、手術に入る数も、以前の3分の1ほどだ。
 それなりのポストにつくと、政治と言うものに介入せざるを得なくなる。
 必然的に、現場は後進に任せて、自分自身は現場から遠退くのだ。
「まあ、さすがに常盤木ほど現場に出突っ張りも、キツイが…」
 実は、医局長と言う立場に対して敬意を払っては貰っているものの、小田切と常盤木七海は、学位としては同じ准教授である。
 彼は、小田切とは正反対のポジション  最前線の指揮官だ。
 軍隊で言えば、小田切が中隊長、七海は小隊長と言ったところだろうか。
「鬼軍曹ってな、中々言い当ててるじゃねぇか」
 シニカルな笑みを口端に浮かべ、小田切は長椅子に寝転がった。
 鬼軍曹と言うのは、ERに入ってきた研修医達が七海に与えた渾名である。
 しかし、これを小田切は称号だと思っている。
 最前線で軍曹が鬼になるのは、部下を生還させる為。
 彼は、ERと言う戦場で、まだ身体に殻をくっつけて右往左往している医者のひよこどもを守っている。
 厳しく鍛える事で、実感の無いひよこどもを、事故や、挫折から、彼なりに守ってきたと言う訳だ。
 そう考えれば、なるほど  
 渡辺教授のキャスティングは巧い。
 現場は七海、政治は小田切、同格である二人の准教授を、部長殿は実に巧く配置した。
「潔癖症の常盤木に、政治は向かないからな」
 気付けば、10年近い付き合いになった相手の顔を思い浮かべ、ふっと笑った。
 出会った頃は、彼こそが頼りないひよこに他ならなかったが、気付けば自分と肩を並べている。
 そして、その彼の手の中で、今は新しいひよこが育ちつつある。
 なかなか、見所のあるひよこだ。
 未だ黄色いその頭に、ようやくトサカらしきものが顔を覗かせ始めただろうか。
(まあ、プライベート込みなところが、考えものっちゃ考えものなんだが  
 壊れる時に、両者公私共倒れされると厄介だ。
 小田切の目には、その件に関してのみ言うなら、遠藤より七海の方が遥かに危なっかしく映っていた。
 付き合いが長い分、意外に脆い所があるのも分かっている。
 こと、恋愛に関しては本当に不器用だ。
(仕事に持ち込むような真似はしないだろうが、な…)
 自分がマイノリティだと自覚している彼は、そもそも誰かに相談しようと言う発想が無い。
 いや、それどころか、パートナーにすらまともに甘えられないのかもしれない。
(いっその事泣きついてくれりゃ、まだフォローも出来るんだが…)
 自分でも良いし、田島女史でも良い。
 誰でも良いから、愚痴の一つも零せる相手を見つけてくれれば。
「分からないのは…」
 そういう七海の脆さを、十二分に知っているはずの、渡辺教授の思惑。
「何で、わざわざ遠藤をERから外へ出す必要があるんだ? よそへやったら、返してもらえん可能性もあるのに…」
 私事はさておき、小田切は、遠藤と言う医者の卵を結構高く買っている。
 卒業時の成績なんか知らないし、真面目なら良いというものでもないが、とにかく素直だ。
 特に、若い医者にありがちな  頭でっかちになり過ぎていない所が良い。
 そして何より、少々手厳し過ぎるきらいのあった七海を、反対に、指導医として成長させてくれた。
 その厳しさから、研修医とトラブルになる事も少なくなかった七海は、どこかギスギスした雰囲気が取れず、不安定だった。
 相手の事を真剣に考えて、入れ込めば入れ込むほど敬遠されてしまうジレンマに疲れていた。
 上司として  いや、同僚として、小田切はそれを歯痒く感じていたものだが…。
 それを変えたのは、当人に自覚は無くとも、間違い無く遠藤だ。
 七海の示した『親心』を、厳しさごと真正面から受け止める事で、彼を変えた。
 今のERは、エースたる常盤木七海の安定とともに、これで均衡が取れている  はずだった。
「遠藤は、このまま何も言わずほっといたら、自動的にうちで取れるスタッフだったんだがなぁ…」
 プライベートで二人が付き合っている事など、部長殿は知らないだろう。
(遠藤には、教授に気取られるなよ、って釘刺しといたしな)
 しかし、遠藤要と言う研修医を、七海が大事に育てている事自体は、彼も知っているはずだ。
(常盤木が目を掛けている研修医と認識していればこそ、部長殿も興味を持ったんだろうが…)
 それを、何故わざわざ手許から取り上げるような事を  
(誰より、常盤木の脆い部分を知っているはずの、あの人が…何故だ?)
 医局長と言う立場から考えても、釈然としないものを感じる。
 よその科で修行するのも確かに良い事だが、それなら、救急部の人間として研修に出せば良い。
 それを、何故わざわざ医局までよそに移す必要があるのだろうか。
 徐々に夜が明けていく様子を、ブラインドの隙間から洩れる光で感じつつ、小田切は目を閉じた。
 傲岸不遜でありながら、深慮遠謀の人物でもある渡辺恭介の意図は、小田切にも読めない。

 分かっているのは、少なくともこの発案が、七海と遠藤の間に少なからぬ波紋を呼んだ。
 それだけは、確かだった。

scene2.渡辺教授 了

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+++ 目 次 +++

Scene.2 渡 辺 教 授

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+++ 目次 +++ 

    本編
  1. 嘘の周波数
  2. Ancient times
    夏祭り SS
  3. 抗体反応
    After&sweet cakes SS
  4. 依存症 [連載中]
    自殺企図
    ⅱ渡辺教授
    scene.1
    scene.2
    scene.3
    scene.4
    scene.5
    空想科学
    疑似科学
    幻覚肥大
    共鳴振動 NEW!
    番外編
  1. 真実の位相
  2. 二重螺旋
    企画短編
  1. 50000Hit記念
    Stalemate!? [完結]

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