4.レジデンスR/1101号室  12月16日 PM10:25

 浴室から出ると、既にメインの照明は落とされ、ベッドサイドの小さなスタンドだけが、丸い柔らかな明りを灯していた。
 部屋の主は寝床に足を突っ込み、その薄暗い明りを背に、何やら冊子の文字を追っている。
 英語か、ドイツ語か、横文字である事だけが、遠目には見て取れた。
「風呂、ありがとうございました」
「お疲れ」
 要の声に顔を上げ、七海は冊子を閉じ、サイドボードに置いた。
「湯船の湯、落としましたけど、良かったですか?」
「サンキュ。いつも片付け任せちゃって悪いな」
「いえ  
「あ、そこにいるついでにミネラルウォーター1本持ってきて」
 そこ  キッチンの横の廊下である。
「ああ、はい」
 珍しいな、と思った。
 アルコール以外の物を寝る前に飲むのは。
 不規則な生活サイクルが祟ってか、七海は  と言うか、当直勤務を伴う医療従事者の多くは、やや不眠症気味だ。
 仮眠時間であろうと、休日であろうと、容赦無く叩き起こされる事が多い為、自然と眠りが浅くなる。
 そういった職業病に対して、人それぞれ安眠・快眠の方策は立てているだろうが、七海の場合は酒と言う訳だ。
(ま、あんまり良い寝付き方じゃないのは確かだよな)
 水で眠れるなら、その方が健康的では、ある。
 そんな事をぼんやり考えながら、要は自らもベッドに足を潜り込ませた。
 先に座っている七海の膝を乗り越え、窓側に寄る。
 何故、無理して窓際へ寄るのか。
 それは、気付いたら、何となくお互いの定位置が決まっていたからだ。
「どうぞ」
 手に持っていた500mlのペットボトルを手渡す。
「サンキュ」
 受け取って、一息に半分ほど飲み、七海は枕許にそれを置いた。
「珍しいですね、寝る前に酒飲まないのは?」
 何気ないつもりだったその質問に、七海は少し困った顔をした。
(…?)
「ああ  まあ、たまには…。さっきも飲んだし、お前も飲まないし、それに…これ以上飲むと、さすがに僕も酔うような気がして」
 そう答えた彼の顔が、少し自嘲気味に見えたのは気のせいか。
 第一、この程度の酒量で、七海が酔う訳ないのに。
「七海さん…?」
 やはり、様子がおかしい。
 もしかしたら、自分の事にばかりかまけている場合ではないのではないだろうか。
 その横顔を窺い見ようとした瞬間  
「もう寝よう。電気、消すぞ」
 言うが早いか、七海はベッドサイドのライトを消してしまった。
 一瞬にして、暗闇が空間を支配する。
 沈黙する部屋に響くのは、キッチンで唸る冷蔵庫の低いモーター音だけ。
 潜り込んだ布団の中で、上手く伝えられない気持ちがぐるぐる回る。
 まるで、眩暈のようだ。
 眩暈の渦巻きに飲み込まれないよう、要は、固く目を瞑った。
 この時、二人の間にある距離は僅か数センチ。
 その僅かの距離が、ひどく遠く感じた。
「遠藤」
 隔絶されたような錯覚に陥りかけた時、まるでそれを察したかのように、暗闇を隔てた隣から、その声は要を呼んだ。
「はい?」
 短く応え、続く言葉を待った。
 しかし、返ってきたのは言葉ではなかった。
 沿うように並んでいる要の手を、七海の手が掴む。
 指に指が絡まる。
 躊躇うような沈黙が、一瞬指先を伝って流れてきた。
「時間が、勿体無い  なんて思うのは、僕だけかな」
 その揺らぎを内包した呟きが、七海の口から洩れる。
「えっ?」
 要は思わず目を開けて相手の顔を振り返ったが、まだ暗がりに慣れていない目には、相手の表情など見えるはずも無く。
 次いで、身体や脚がぴたりとくっついてくる。
「こんな風に、当たり前にしていられるなんてのは、本当は、後僅かなんだな」
 熱い吐息を伴った七海の呟きが、薄い布を隔てて肩を濡らした。
 摺り寄せられる頬に、要の身体が熱を帯びる。
 意外なほど素直な誘い方をする七海に、却っていつも驚かされる。
 要は、絡み付いてくる腕掴んで、七海の方へ身体を反転させた。
 それにつれて七海の身体も回り、仰向けになる。
 その身体を、要が組み敷いていた。
 力の抜けた身体をひどく華奢に感じながら、ゆっくりと口唇を重ねる。
 まるで、そうであるのが、当たり前のように。
(そうか)
 しかし、さっき七海が言った通り、こんな生活は後僅かで終わってしまう。
(研修が終わったら、こんな風に、していられないんだ)
 お互いの時間が、今よりも、もっと、ずっと合わなくなる。
 まして、別の医局に移れば  尚更。
 初期研修も折り返し地点だ。
 後、幾つかのプログラムは残しているが、いずれも1~3ヶ月単位。
 しかし、それが終わってしまえば  今度は後期研修だ。
 自分の所属する医局を決めなければならないが、前期研修と違って、後期研修では一つの医局に所属して、より専門的な研修を受ける事になる。
 つまり、最低1年  平均的には3年、その医局に在籍する事になる。
 要は今、渡辺教授から、その所属部署として第一外科を勧められている。
 要自身は、当然、初期研修が終われば、そのまま救急部に入局して後期研修に入るのだと思っていた。
 しかし、肝心の救急部長たる人物が、別の進路を指し示してくるとは。
 はっきり言って、想定の範囲外もいいところだ。
(確かに、今のままじゃ…あまり役には、立てない…よな)
 当然、これから勉強に来るのだと言う研修医に対して、どれほどの期待も無いのは分かっている  が。
 また一方で、今のままの流れで、場当たり的に応急処置ばかり憶えてしまう事の怖さがあるのも確かだ。
 目の前で日常的に繰り広げられる『緊急事態』に、何とか応じていくのが精一杯で、病棟へ送られた患者のその後の経緯を追う事が、つい疎かになる。
 果たして、退院出来たのか。
 後遺障害はどうだったのか。
 社会復帰は臨めるのか。
 ただ生命を繋ぎ止めるのではなく、人生を繋ぎ止める事。
 常日頃から、七海にも口うるさく言われていた。
 しかし、それは、患者の状態を点でしか診る事の出来ない救急という現場ではなかなか実感を持つのが難しい所である。
 何せ、急性期を乗り切った患者のその後を見届けられない場所なのだ。
 その患者が、どのようにリハビリを積んで、社会復帰への道のりをゆくのか、ほとんどにおいて知らされない。
 そういう全体の流れを知らないまま、次の段階へ進んでしまって良いのだろうか。
 とは言っても、それはあくまで要の場合の話であって、もちろん、考え方は人それぞれ、多種多様。
 整形外科や脳外科に進みたいが、その前に少し救急も学んでおきたい、とか。
 臨床へは進まないが、研究室に入り、学会で活動する為に研修したい、とか。
 しかし、本当に救急に腰を据えるつもりなら、それでは駄目だ。
 そう考えた時、渡辺教授の発案は、決して理に適わないものではなかった。
 それを思うと  
 正直、気持ちが傾かない訳が無い。
「遠藤」
 そんな気持ちを見透かされたのだろうか。
 重ねていた口唇が少し離れて、要の名前の形に動く。
 眩暈のような葛藤の渦から、要の身体を掬い上げるように、その腕が首筋に絡み付いた。
「他所事、考えるなよ」
 暗がりに慣れ始めた目が捉えたのは、泣き出しそうにも見える、途方に暮れた、七海の顔。
 肌を重ねていると、時々彼はこんな表情を見せた。
 滅多に弱いところ見せない彼には、珍しい表情だった。

 まるで行場を失って彷徨う子供のような  

 何かを、迷っているような  

 そして、先を促すような細い腕に引き寄せられ、その胸の上にゆっくり、落ちる。
 柔らかい体温と、石鹸の匂い。
 やや湿った髪が、首筋をくすぐる。
 絡み付く腕を外して、耳の横で縫い止めた。
 その腕が一瞬強張るのを感じたが、気付かないふりをした。
 空いている方の手で、夜着のボタンを外す。
 全てのボタンを外すと、少し乱暴な動作で袷の部分をはだけた。
 ボタンを外すのに使った手で、反対の腕も掴む。
 露になった七海の胸に、ぴたりと自分の胸を付けた。
 直に触れる皮膚を通して、早鐘のような心臓の音が伝わってくる。
 その鼓動を感じながら、もう一度キスをした。
 濡れた音の隙間で、くぐもった声が、口唇の端から洩れ聴こえている。

 でも。

(………?)

 ずっと。

 どこか。

 感じていた違和感。
 噛み合わない感じ。
 或いは、焦燥感。
 このところずっと感じていた、あのぎこちなさ。
 それを拭い去りたくて、尚、強くその先を求めた。
 苦しげにも聴こえる呼吸を感じながら。

 身体を繋ぐ事で、違和感が取り払われる  
 そんな焦燥感と衝動に、突き動かされていた。

 元に戻りたい、そればかりに気持ちが急き立てられ、二人の間に生じたこの違和感の本当の意味を、その時の要は考えもしなかった。
  考える事が、出来なかった。


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+++ 目 次 +++

Scene.2 渡 辺 教 授

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+++ 目次 +++ 

    本編
  1. 嘘の周波数
  2. Ancient times
    夏祭り SS
  3. 抗体反応
    After&sweet cakes SS
  4. 依存症 [連載中]
    自殺企図
    ⅱ渡辺教授
    scene.1
    scene.2
    scene.3
    scene.4
    scene.5
    空想科学
    疑似科学
    幻覚肥大
    共鳴振動 NEW!
    番外編
  1. 真実の位相
  2. 二重螺旋
    企画短編
  1. 50000Hit記念
    Stalemate!? [完結]

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