2.桜川駅前  12月16日 PM9:00

 店を出たところで、教授の携帯が鳴った。
「失礼」
 そう言って、彼は場を離れた。
 七海と二人、店の前に残される。
「…あの」
 少し遠慮がちに、要は七海に声を掛けた。
(早く、二人になりたい)
 二人だけで、話がしたい。
「うん?」
 振り向いた顔は、別に怒ってはいなくて  少しホッとした。
「あの、部屋…寄っても良いですか?」
 そう訊ねると、七海が驚いた顔をした。
「…何で、わざわざ訊くんだ? もうこの時間だし、てっきりうちに帰るもんだと思ってたけど」
 何を当たり前の事を、と言わんばかりの、呆れ声が返ってきた。
「え? いや、じゃあ、はい」
「??? おかしな奴だな」
 怪訝な顔で、七海が要の顔を見上げている。
 どうしてもぎこちない感が取れない。
 尾を引いているのだ。
 七海の口から洩れた、『冷たい』と言う一言。
 しかし、訳を訊ねて良いものか、触れずにいるべきか、判断もつかず   
(それでも)
 いつも通り同じ部屋に帰り、いつも通り普通の顔で過ごせば、明日の朝目覚めた時には、この如何ともし難い空気は溶け消えているのだろうか。
 要は、アスファルトの地面を睨みながら、小さく息を吐いた。
 そこへ、教授の声が滑り込み、思考が途切れた。
「待たせたね。全く、我々にとって急な連絡は一つの憑き物だな」
 悠然と笑って、彼は自分の携帯電話をポケットにしまった。
「さて、それではそろそろお開きにしようか」
 改めて教授が解散を宣言する。
「今日は、ありがとうございました」
 要は慌てて頭を下げる。
 無言で片手を上げ、教授は満足げに微笑んだ。
「全くねぇ…。その唐突な上に強引で傲慢な性格、毎度毎度ありがとうだよ」
 それを刺すように、鋭い棘を纏った七海の声が割り入る。
 ついさっき、要が話し掛けた時は普通だったが  
(うわっ…やっぱり怒ってるじゃんかよ…!!)
 とは言っても、どうやらその矛先は要よりも教授の方へ向いているようだが。
 しかし、棘の先を向けられた相手は涼しい顔でこう言った。
「もう少し、感情を抑える癖を付けた方が良いな。『常盤木先生』」
 そして、如何にも面白いと言いたげに、その人物は七海の肩を叩く。
(何でまた、そんな挑発するようなことばっかり言うかな…)
 どうも、教授は七海を揶揄って楽しんでいるようだ。
「そちらこそ、独断専行は程々にしないと、いつかしっぺ返しくらいますよ、『渡辺教授』!!」
 七海が迷惑そうに上司の顔を睨む。
 天下の往来で、あわや  と、思った瞬間。
「まあ…いいや」
 ちらっと要の顔を見て、大きな溜息を一つ吐いたかと思うと、七海はすんなり矛を収めた。
 医局長辺りが相手なら、こんなところで引いたりしない。
 教授には一応遠慮しているのか。
(いや、単なる慣れか。多分、昔っからこんななんだろうな)
 
「それじゃあ、教授。今日はもう解散で良いんだね。  遠藤、行くぞ」
 これ以上無く素気ない、捨て台詞に近い口調で、七海は踵を返した。
「え!?」
 きちんと挨拶をしなくて良いのだろうか、と要は翻した七海の背中と、教授を交互に見た。
「七海! 遠藤先生は私が送ろう。どうせタクシーだからな」
「えっ…?」
 虚を突かれた顔で、七海が振り返る。
「店から呼んでおいたんだ。ほら、来たようだぞ」
 一台の黒い車が、3人の前に停まった。
「遠藤先生、早く乗りなさい」
「えええ!?」
 背中を押され、タクシーの前に出される。
 七海の顔を振り返ると、彼にも予想外だったらしく、唖然とした顔をしていた。
「ついでだから、七海も乗って行くか? 幾ら近いと言っても物騒な世の中だ」
 そう言って教授は片唇を引き揚げて笑った。
「……いや、僕は結構。酔い覚ましに歩いて帰るよ」
 またもや七海はすんなり引いた。
 それどころか。
「せっかくだから、遠藤は送ってもらいな」
 最終的に要をタクシーに押し込んだのは、他ならぬ彼だった。
「教授、今日はどうもごちそうさま。遠藤も、明日はゆっくり休んどけよ」
 あっさりと、片手だけを揚げた七海に見送られ、タクシーは発進してしまった。
 盗み見たルームミラーに一瞬だけ、彼の背中が映る。
 彼は、もう見送りを済ませて帰路を歩き始めたようだ。
 今日は生徒兼恋人はおろか、上司すら真面目に見送る気は無いらしい。
(何で、こうなるんだーっ)
 心の中で虚しく声を上げるものの、それはいずこへ届くものでも無く。
 そうして、タクシーはひたすら七海のマンションとは逆方向へ走ってゆくのであった。

 七海は、一人で自室に戻った。
「いや…そりゃシフトの関係上、いくらでも一人では帰ってくるけど……それにしても、広…っ」
 呟くほどの音量で、七海は言った。
 それでも、物の少ないガランとした部屋の中ではよく響いた。
「やっぱりあいつ、嵩高いんだなぁ」
 今度は、もう少し大きな声で言った。
 更に声は、わん、と響く。
「ここまで徹底的に別行動になるのは、何ヶ月ぶりかな」 
 時間的なすれ違いも多かったが、それでも、待っていれば彼はここへ帰ってきたし、反対に、自分が部屋に帰れば、彼が待っていた。
 ここ半年、そんな生活がずっと続いていた。
「だけど
 とりあえず
 今夜は
 一人
  か」
 七海は冷蔵庫から缶ビールを取り出した。
 プルトップを引くと、ガスが抜ける小気味の良い音が響く。
 ふと、キッチンカウンターに横付けしているテーブルの上のノートパソコンに視線が止まった。
 パソコンは、出勤前と変わらない姿でそこに鎮座している。
 その隣に、数冊のノートと筆記用具が、几帳面に揃えて置かれていた。
 勿論、七海のものではない。
 彼が生徒に課した宿題のためのものだろう。
「何も、本当に当直明けにしなくてもいいのに  素直に寝ろよ」
 呆れた声が洩れる。
 ビールの缶を手にしたまま立ち上がり、七海は、テーブルの上のノートを手に取った。
「どんなもんかな?」
 自然、教師の顔になる。
「商品名、キシロカイン。薬品名、リドカイン。主成分、塩酸リドカイン。これはP波を発生させるナトリウムチャネルの抑制を目的とし、……………」
 やや右上がりの整った字が、やたら綺麗に整列していて、それはそのまま書いた人物の性格を示していた。
 どうやら、七海の恋人兼生徒は、真面目に宿題に取り組んでいたようだ。
 苦笑いを浮かべ、ノートを閉じた。
 七海は、初めの数ページしか見なかった。
「素直過ぎなんだよな、あいつは」
 ノートの表紙を緩慢な動作で撫でる。
 院内の売店でも売ってる平凡な大学ノートは、半分ほどのページが使い込まれていた。
「………」
 使い込まれている割に、痛みが少ない。
 表紙からはみ出して、50音のインデックスシールが貼られていた。
 彼は、このノートに、専門用語や略語を50音でおおまかに振り分けて書き留めている事が見て取れる。
「外科へ行くつもり…なのかな」
 その問いに、答えるものは無い。
 黙して鎮座しているノートを睨んだ。
「…………。
 ぼーっとしててもしょうがないか。風呂入って寝よ」
 今夜は、七海の言葉に返事を返す相手がいない。
「これは…どうも  
 妙に声の反響するバスルーム。
 七海は天井を仰ぐ。
「独り言が増えていけないな」
 風呂の支度をしながら、溜息を吐いた。
 これでは本当に縁側で日向ぼっこしている老人の風情だ。
「やっぱり、テレビくらい買おうかな」
 もう一度溜息を吐いた。
 ほんの一年前までは随分長く一人暮らしをしていたものだが  すっかり人の居る生活に馴染んでしまったものだ。
「もうすぐ、研修終了…か」
 長いようで短かったな、と呟く声が、湯気を上らせながら浴槽に溜まる湯の音に掻き消された。
 その時、ダイニングテーブルに置き去りにされた携帯電話が鳴り出した。


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+++ 目 次 +++

Scene.2 渡 辺 教 授

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+++ 目次 +++ 

    本編
  1. 嘘の周波数
  2. Ancient times
    夏祭り SS
  3. 抗体反応
    After&sweet cakes SS
  4. 依存症 [連載中]
    自殺企図
    ⅱ渡辺教授
    scene.1
    scene.2
    scene.3
    scene.4
    scene.5
    空想科学
    疑似科学
    幻覚肥大
    共鳴振動 NEW!
    番外編
  1. 真実の位相
  2. 二重螺旋
    企画短編
  1. 50000Hit記念
    Stalemate!? [完結]

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