2.桜川病院救命救急部/初療室  12月15日 PM3:07

 七海のマンションの前を通り過ぎた救急車は、要と七海より一足早く桜川病院へ到着した。
 迎え入れたのは、医局長の小田切だ。
 派手に車輪の音を立てて、救急隊のストレッチャーが初療室へ滑りこんでくる。
 顔馴染みの救急隊員が、懸命に心肺蘇生を施していた。

「おいおいおい! 隊長さん、心肺停止なんて聞いてねぇぞ!? 停まってから何秒だ!?」
「すみませんです。搬送途中に意識消失して、VFに。現在40秒です」

 担ぎ込まれた患者が心肺停止というのは、正直小田切にとって誤算であった。
 先に搬送されてきた患者の手術中であったのだが、助手に一時任せてこちらに回った為、そう長い時間こちらには付いていられないのだ。
 先刻叩き起こしたERのエースは、5分もすれば助手を引き連れ、現れるはずだ。
 万が一彼が間に合わなければ、先の患者とこの患者、下手をすれば両方持っていかれるかもしれない。
 これは思いの外危ない橋を渡る羽目になってしまった。
 いや、この現場は綱渡りなのが日常か。
(まあ、そうは言っても、とにかくまず患者さんをこっち側に引き戻さんと話にならんな)
 誤算だと言って嘆いていても仕方無い。
 まず、蘇生させる事だ。
 そうすれば、後は後続に引き継げば良いのだ。
 おそらく、彼は間に合う。
 こういう場面に間に合わなかった事が無いのだから。
 そんな不確定要素に、小田切はいつも賭けてきた。
 チームへの信頼と言う名の仮面を借りて  

 そして、処置台の横にストレッチャーが並んだ。
 患者は、まだ若い男性  いや、少年だ。
 高校生くらいだろうか。

『処置台に移せ!』
『せーの! 1、2、3!』

 スライダーと呼ばれる、ストレッチャーより一回り小さい板の上に患者を乗せ、板をくるっと一周巻いた布を滑らせて、患者を処置台へ移乗させた。

「モニタだ。いちいち脱がしてると間に合わねぇ、服切っちまえ!」

 心電図モニタに映し出されたのは、乱雑に波打つ出鱈目な波形。
 VF  心室細動と呼ばれる心停止の一種だ。
 ERではよくお目見えする波形の一つである。

『ME、カウンター準備、200Jから』

 通称ME  臨床工学士と呼ばれる医療機器のオペレーターが、様々な機器の電源を立ち上げていった。
 先月中途採用で入ってきたのだが、なかなか手早く、優秀である。
 その周囲で看護師や救急隊員が、現段階で可能な限りの処置を施している。

『エアウェイ挿管OKです!』
『静脈ライン確保!』
『動脈ラインも確保しました!』

 患者の身体に次々と装着される管と管と管。

『充填、200Jです』
『全員離れろ』
『ショック!』
『戻りません!』
『次、300J』
『充填、300です!』

  ピッ、ピッ、ピッ……

 不規則に波打っていた波形が、規則的な形に変化した。
 心電図が洞調律、即ち正常な状態へ戻ったのだ。

「よし、戻ったな。エピネフリン1筒、生理食塩水で押し込め。30秒後、バイタルチェックな」

 暫定のチームリーダーは、かくして新患の急場を切り抜けた。
(さて、後は常盤木が来たらこっちはアイツに振って、俺はオペ室に戻らんと…)
 小田切は大きく肩を回しながら、溜息を一つ吐いた。

「医局長、お待たせしました」
 要と七海が初療室へ到着したのは、ちょうど心電図が洞調律に戻った瞬間だった。
「おはようさん。悪いねぇ、まったりしてたところ呼び出しちゃって」
 とりあえずの急場を凌いだ医局長は、人の悪い笑みで二人を出迎えた。
「いいえぇ、ツケにしとくんで、よろしくお願いしますね」
 七海は七海で企み顔で切り返した。
「怖い、怖い。こりゃ馬に蹴られるかな?」
 しかし、このくらいで怯む様な上司ではない。
(この二人、意外と似た者同士だよな…)
 他人をおちょくるのが好きな所が。
 要は、やれやれと溜息を吐いた。
「ま、蘇生には成功してる訳ですし  バイタルが安定したら原因検索しましょう。VF前の心電図ありますか」
 まだ未整理の各記録の中から、救急隊から引き継がれた心電図の記録が七海に手渡された。
 実は、七海が呼び出されたのは蘇生の為ではない。
 心臓を動かすだけなら、別に新米や研修医だけで十分事足りるのだ。
 救急センターの医師が本領を発揮するのはその先  再起動した心臓が再び停まらないように、原因疾患を突き止め、取り除くことである。
 その原因検索には、やはり新米では役者不足なのだ。
「まぁ、母親が取り乱しててイマイチ情報が掴めなかったらしいんだが、救急隊長さんが聞き出したところでは、どうやら持病や既往歴は無かったみたいだな」
 医局長が言った。
「こういう場合、遠藤はどうアプローチする?」
 七海が要に目を向けて質した。
「ありがちなところでは、やっぱり心筋梗塞とか、脳疾患とか、アレルギー性ショックとか…急性疾患から、ですかね。自室で意識不明でしょう?」
「いや、まあ急性には違いないけど、そうじゃなくてさ。ほら、QRS幅が増大してるだろ? それに  
 要の回答に対して、七海が次のヒントを与えようとした時  

  ピリリリッ…ピリリリッ…

 まるで要の言葉を否定するかのように、心電図モニタが再び悲鳴を上げた。
「またVFです!」
 除細動器の傍で、MEが叫んだ。
「なんだって!?」
 一斉に目線がモニタに集まる。
 不規則に乱れた波形。
「脈、触知しません! 呼吸なし!」
 看護師が声を上げた。
「常盤木、悪いが何とか持たせてくれ! 遠藤は原因検索のサポートだ。俺は患者の母親をあたる。 こういう症状ってのは、何かしら兆候があるもんだからな」
 医局長が慌しく初療室を飛び出していった。
「……だってさ。とりあえずカウンター、スタンバイ。300」
 七海が除細動器のパドルを手に取った。
「充填300J」
 患者の身体に誰も触れていない事を視認し、七海がパドルを患者の身体に押し当てた。
 患者の上半身は大きく跳ね上がり、もう一度洞調律を取り戻した。
「エピネフリン1筒、側管注。生食でフラッシュ」
 看護師が、確保した輸液ラインに指示された薬品を注入した。
「どうしますか? 受傷起点に関して情報がまるで無いですよ?」
 要は七海の顔を見た。
「とりあえず、今ある情報からパーセンテージの高い症例を潰していくしかない」
 七海が要の方を振り返った。
 その視線に、次の指示が含まれている。
「ポータブルX線、準備します」
「よろしい。MEさんにエコーも立ち上げてもらって。 あ、それから、検査室から先に出してる血ガス分析の結果出てないか確認してこいよ」
 外傷は勿論の事、脳出血、動脈瘤破裂など、急激に意識を消失するような疾患は出血を伴うものが多い。
 となれば、まずはレントゲン。
 そして、エコー。
 要は医療機器類が収まった棚の中から、携行用のX線を取り出した。
 そのX線を、MEが素早くモニタに繋ぐ。
「オッケー。頭部、胸部、腹部、各1でね」
 手早くレントゲン撮影を済ませ、それを専用のプリンタから出力する。
 ところが  シャーカステンに掛けられたレントゲンは、どれも綺麗なものだった。
「おかしいな。どこもこれと言って…。エコーも…異常なし、か」
 七海が難しい顔で首を捻る。
「血ガスはもう少し掛かるそうです」
 要もすぐに検査室に内線を入れたものの、『ERから出された至急の検体ばかり山積していてとても追いつかない』とボヤキを聞かされるばかりだった。
 そこへ、三度心電図が異常を告げた。
「VFです!」
 看護師が叫んだ。
「またか…! 心筋に掛かる負担が心配だけど、そんな事も言ってられないな。カウンター、もう一回!」
 七海が除細動器のスタンバイを促した。
 通算4回目の除細動だ。
 心臓を『止める』だけの電流を心臓に流すカウンターショック。
 当然、心筋組織に掛かる負担も大きい。
「これは原因が特定できなきゃ何度でもVF繰り返すぞ。さぁ、医局長は間に合うかな…?」
 七海が口の中でそう小さく呟くのが聞こえた。
「エピネフリンはあまり効いてないみたいですね」
 看護師が目線で次の指示を求めた。
「除細動してエピネフリン入れて駄目なら、次はリドカイン…でしたっけ?
対VFのアプローチとしては、『除細動→エピネフリン→リドカイン→マグネシウム→プロカインアミドそれで駄目ならメイロン』って順番で習った気がするんですけど」
 記憶の片隅に残っている、学生時代のノートのページを必死で捲った。
 要は、確かめるように七海の顔を見る。
「ばか、何でもかんでも教科書丸暗記するんじゃないの! エピネフリンの次に何でリドカイン使うケースが多い理由分かってるのか?」
 七海が要の顔を睨んだ。
 どうも間違っているようだ。
「えーとですね…あれ? 何でですかね。薬の強弱…? 後に行くほど強いとか」
 要の答えに、七海が一瞬絶句した。
「…な訳ないだろっ! エピネフリン以外の薬効はそれぞれ別! 原因が特定出来てないのに闇雲に薬使ってたら、いつかお前が患者の心臓を止める日が来るぞ!
 基本的にはどの薬も心臓からその力を奪うための物なんだ。使えば使うほど、患者の心臓に負担が掛かる。 ま、乱暴な説明をするなら除細動とほぼ同じと考えて良いかな。一番の違いは、薬剤には体内の成分を整える力があると言う事。 低マグネシウム血症が引き起こした心停止なら、マグネシウムを投与すれば改善される。分かりやすいだろ?
 で、リドカインは心筋梗塞に有効な薬。搬送されてくるVF患者の原因疾患の多くが心筋梗塞なもんで、エピネフリンで駄目ならリドカイン、ってパターンが多いだけ。
 困った事に、ベテランでもこれを単純に投与の順番だと思い込んでるヤツは意外に多いけどね」
 それは、入局当初のことを思えばかなりソフトな口調ではあったが、このところあまり落ちなくなっていた久々の雷だった。
「すみません…」
 教科書的な処置と言うのは、無意識のうちにルーティン化してしまっている人間も多い。
 要もまた、いつの間にかその罠にハマってしまっていた。
「教科書ってのは、その理屈を理解出来ていなければ何の意味も無い。 何故、そうするのか。どんな理由でそれを使うのか  それをすっ飛ばして丸暗記しても、てんで役に立たないよ」
 七海が要の肩を叩いた。
 その顔は、笑っていた。
「はい…」
 知らない間に、『馴れ』で処置にあたっていたのだろうか。
 それとも、機械的に『処理』していたのだろうか。
 要の脳裏を反省の二文字が過ぎった。
「おーっし、待たせたな」
 そこへ、この場に不似合いな暢気な口調で医局長が戻ってきた。
「医局長、何でした?」
 その口調で、医局長が何か有用な情報を仕入れてきたことを感じ取ったらしく、七海は、そんな訊き方をした。
「抗うつ剤だ。三環系のヤツをな、1ヶ月分以上一気服みだってよ。そりゃ心臓も停まるわな。
 そういう訳で、原因も分かったし、俺はオペ室戻るわ。お後はよろしく」
 片手を挙げ、医局長が初療室を出ていった。
「さて…。原因も分かったし、拮抗薬入れようか」
 原因が分かれば容易いとばかりに、リーダーを引き継いだ主任医師の緊張が少しだけ緩んだ。
「はい! …て、何使うんですか?」
「正解は、メイロン。遠藤、闇雲にリドカイン入れなくて良かったな」
 看護師に薬品投与の指示を出し、要の方を振り返った七海が、意地悪な顔で笑った。
「うっ…」
 先の話で落ち込みかけていたところへ、更に追い討ちを食らった。
「ざっと見60kg前後ってとこかな。それじゃ、メイロン3A側管注ね。生食で押し込んだら、即、除細動。これは、遠藤がやりな」
 看護師から薬品アンプルを受け取った要は、それを指示された通り静脈に繋がれた点滴ラインに入れた。
「あ、はい。カウンター、300でお願いします」
 MEの方を振り返り、除細動器の操作を依頼する。
「300、スタンバイです」
 最後の除細動になる事を願いつつ、要は患者の胸部に長方形のパドルを押し当てた。
「蘇生成功!」
 モニタ管理をしていたMEの声が大きくなった。
「よかった。じゃあ、このまましばらく観察しよう」
 七海の口許が、誰にも分からないほど微かに緩む。
 緊張が解けたのだ。
 致死的状態の患者がそれを抜けた瞬間、僅かに口許を綻ばせる。
 この表情はきっと、要しか  本人すら、気付いていない。
「あの…落ち着いたところでお聞きしたいんですが、この場合何でメイロンなんですか? 心停止に対して、あまり早期投与する薬品じゃないですよね?」
 そんなところを見ている場合ではない。
(さっ雷食らったばっかりなのに、何考えてんだ、俺)
 要は気持ちを切り替えて、七海に今の処置の理由を訊ねた。
「ああ、それは  んー……その答えは、宿題にしとこうかな。メイロンに限らず、さっき並べた薬剤それぞれの成分と薬効、使用方法、投与量を調べておくこと」
 七海が意地悪く笑った。
「えええええ!?」
「ハイハイ、文句言わない。自分で調べたほうが断然頭に残るんだから!」
 励ましてるんだか面白がってるんだか分からない笑顔で、バシッと肩を叩かれた。
「痛いですよっ! 前から思ってましたが、意外とアンタ乱暴ですね!?」
「お話中すみません。常盤木先生、もう一度血ガス分析依頼掛けて、最初のものと比較してもらおうと思いますが、如何ですか?」
 背後から、看護師の田島が声を掛けてきた。
 二人の遣り取りに、笑いを噛み殺しながら。
「あ、そうですね。お願いします」
 彼女の言葉にそう答えた後、七海は患者の方へ視線を移し、患者の身体に触れながらカルテを取り始めた。
「…遠藤、そんなとこで傍観してないで、自分で触って確かめろよ。心電図ばっかりいくら眺めても、患者の身体は治らないよ。 『見て』『聴いて』『触れて』みなきゃ」
 七海が要を手招きした。
「あ、はい!」
 慌てて駆け寄る。
「顔色、呼吸、脈、皮膚の状態  触ってみて感じることってのは、必ずあると思うよ。 診なきゃいけないのは画面じゃない。患者なんだ」
 導かれるまま、患者の身体に触れる。
 まず、血流を取り戻した血管が、皮膚に赤みをもたらす様子が見て取れた。
 そして、上下する胸郭が、その動きをゆったりと落ち着かせてゆく。
「どう?」
 七海が要にその感想を求めてきた。
「落ち着いてきています。何て言うか、もう大丈夫…なのかな」
「モニタ、見てみな」
「あれ…? 確かに安定してきているみたいですけど、まだそんなに変化してないですね…?」
 モニタ上の数値は言ううほど改善されていなかった。
「ま、モニタの方も徐々に安定してくると思うけどね。人間の五感も、捨てたものじゃないだろ?」
「そう、です、ね」
「じゃあ、とりあえずどうやら致死的状態は抜けたみたいだし、家族さんに入院の説明しにいこうかな。一緒に行くか? たまには医療面接の経験もいいだろ」
 医療面接。
 患者本人、あるいは患者の家族と、傷病に関する報告や、今後の処置…手術に関するの説明、その相談を行うとだ。
 何気にこれが一番難しいのではないか、と要は最近思い始めていた。
 特に、今回のようなケースは、難しいかもしれない。
(いや、命は取り留めた訳だから、その逆に比べれば断然マシだろうけど)
 抗うつ剤の大量服薬。
 そこから導き出される答えは、おそらく自殺企図。
 一般的に言う自殺未遂だろう。
 自分の子供なり親なり兄弟なりが、そこまで追い込まれていた現実を家族としてはなかなか認めたくない。
 こちらは事実説明をしているだけのつもりが、気付いたら家族は責められている様な気持ちになってしまうことも多く、話がこじれやすいのだ。
「何神妙な顔してんだよ。行くぞ?」
 七海が事も無げに笑って、要を手招きした。
 慌ててその背中を追いかける。
 追いかける。
 追いかける。
 毎日が、その繰り返し  
 追いかけても追いかけても追いつかない背中。
 早く、その背に追いつきたいのに、このところ気持ちばかりが前へ出て、空回りしている。
「急いで良い。でも、焦らないで。着実にこなしてくれればそれで良いよ」
 空回りする音でも聴こえていたのだろうか。
 初療室のドアを開ける直前、手を止めて振り返った七海がそう言って微笑んだ。
 しかし、要は、咄嗟にそれに応える事が出来なかった。


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+++ 目 次 +++

Scene.1 自 殺 企 図

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+++ 目次 +++ 

    本編
  1. 嘘の周波数
  2. Ancient times
    夏祭り SS
  3. 抗体反応
    After&sweet cakes SS
  4. 依存症 [連載中]
    ⅰ自殺企図
    scene.1
    scene.2
    scene.3
    scene.4
    scene.5
    渡辺教授
    空想科学
    疑似科学
    幻覚肥大
    共鳴振動 NEW!
    番外編
  1. 真実の位相
  2. 二重螺旋
    企画短編
  1. 50000Hit記念
    Stalemate!? [完結]

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