scene.14 本当は、いつでも

 喫茶店を出て、要は急ぎ足で七海のマンションまで戻った。
 与えられたパスで部屋に入ると、玄関には七海の靴があった。
 彼の方が先に帰ってきたようだ。
(…て事は、どうやら残業は嘘だな)
 朝日の話を総合すると、結局七海は何もかも知っていたことになる。
 だから、自宅に訪ねて来られても、容易に部屋に上げた。
 自分が対象ではないことを知っていたから。
 その上で、要には知らん顔していたのだ。
 さっきも同じ。
 要が病院を出る時も、彼は窓の外に朝日の姿を見つけていたのだ。
 分かっていて、要を先に帰した。
 残業があるフリをして。
(何か、腹立つな…それ)
 七海だけが、随分余裕ではないか。
 じんわりと胸中に不穏な感情がにじむのを感じながら、要は彼がいるであろうリビングへ足を進めた。
 リビングのドアを開けると、彼は入り口に背を向けて新聞を読んでいた。
 彼は、要が部屋に入ってきたことに気付いていないのだろうか。
「おじゃまします」
 背中に向かって声を掛ける。
「お帰り。…って挨拶もおかしいか。結局お前の方が遅かったな」
 いつもと変わらない口調で、背を向けたまま彼は応えた。
 その背中を、要は抱き留めた。
 新聞が七海の手から落ちる。
「…白々しい。窓から見えてたでしょ」
「ちょ…っ、何だ、いきなり」
 うるさげに、七海は要の腕を払おうとした。
 要はそれを許さず、両腕に更に強い力を込める。
 苛立ちも、腹立たしさも、焦燥感も、愛しさも、全てが入り混じっていた。
「遠藤、苦しい」
「触りたいんです」
 細い首筋に頬を擦り寄せた。
「何言って」
「七海さんに、触りたい」
 そして、安心したいのだ。
 ゆっくりと、要は七海のシャツのボタンに手を掛けた。
「あ…、待てって」
 要の手を、七海が掴む。
「待ちません。……七海さん、知ってたんでしょう。朝日のこと」
 ぴく、っと七海の手が一瞬強張った。
「…知ってた。て言うか、受けてた相談の大半は、お前の事だった。彼女はいるのかとか、好みのタイプはどうだとか…そん…っ、やめろって!」
 シャツの襟を引っ張り、露出した肩に歯を立てる。
「はっきり言えば良かったじゃないですか。そうしたら、あんなに時間取られたりしなかったでしょうに」
 噛み付いたのは、半分悔し紛れだった。
 思ったよりずっと、腹を立てている自分に驚く。
「どう言えって? 遠藤は、僕と付き合ってるから、って言うのか?」
 呆れた、と言わんばかりの声が返ってきた。
「言っても、良かったのに」
「バカだろ、お前」
「バカです。この件に関しては」
 開き直った要に、七海は大きな溜息を吐いた。
「そうじゃなくて、どうして気付かないかな…。牽制しあってたんだよ、僕と朝日は」
「牽制?」
「朝日は、気付いたんだ。僕の視線がいつもどこを向いているか。だから、僕に相談を持ちかけた。不利な戦を五分に持ち込むために」
「は…?」
「僕らは、お前を挟んで向かい合ってた。朝日は、僕とお前が二人きりになるのを怖れていたし、僕は朝日とお前が接触する機会を作りたくなかった」
 ボタンに掛かったまま停まっている要の手を、七海がきゅっと握った。
「あの…、もしかして、本当は、ちょっと妬いて……ました?」
(だから、何も言わなかった…?)
 指先が、ぴく、と震える。
「妬いて…て言うか、焦ってた…かな。朝日の事を、ズルイと思った瞬間もある。朝日は、無責任にいくらでもお前の味方が出来るのに、僕にはそれは出来ない。  しちゃいけない。僕はいつも口うるさくて嫌なことばかり言ってるのに、朝日ときたら涙目でお前をかばうんだもんな。勝てないよ」
 七海の手に強い力が込もった。
「…でも、本当は、ズルイのは朝日だけじゃない」
 七海の言葉に、先日朝日に投げつけられた言葉を思い出した。

"いくら指導医だって言って、ズルイ"

 そう言えば、そんな事を言っていたが、あれはてっきり要に向かって投げつけられた言葉だと思っていた。
「僕は、姑息だな。抜け駆けしようとした。パスを知らせたら、きっとお前は来てくれるって分かっていて、あんな風に時間を作ろうとするなんて」
 七海が自嘲気味に呟く。
(そうか。あれは七海さんをズルイと言っていた訳か)
 指導医に呼ばれれば、研修医は飛んでくるだろう。
 その立場の人間が、プライベートタイムにそれをするのはズルイ、と。
「そうですか? その後自宅まで押しかけてきた朝日だって相当なツワモノだと、俺は思いますけどね」
「あれは、やられた」
 苦笑交じりの呟きが、七海の口から洩れた。
 要にしてみても、今思い出しても切ない体験だ。
 その分を埋めようという訳ではないが、抱き留める腕により一層力を込めた。
「あの時、俺だけ帰されて、何でだろうって思いました。実習のことなら俺がいても問題無いはずなのに、何で追い出されたんだろうって」
 相手の耳の横に口唇を寄せながら、要は呟いた。
「それは、さっき言った通り…直に、会わせたく…なかった、から」
 少し息苦しそうな声で、七海が答えた。
 長らく動きを止めていた要の指が、再びボタンを外し始める。
「ちょっと嬉しい  って言ったら、不謹慎ですかね…?」
 全てのボタンを外し終えると、夏物の薄い布地は一瞬ふわりと広がる。
 隙間から覗く肌に指を這わせて、そのまま、肩に掛かる邪魔なシャツを払い落とした。
 外気に触れたからか、別の理由か、七海の身体が一瞬固くなった。
 その身体を背後から抱き留めたまま、顔だけを上に向けさせて、触れるだけのキスを落とす。 
 刹那、交わった吐息はやたら熱かった。
「…風呂、入る? この間の続きって訳じゃないけど  
 七海の、渇いて掠れた声が要の耳を掠める。
 浴室から石鹸の匂いを含んだ蒸気が洩れ出ている事に、その時やっと気が付いた。


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