scene.9 手技

 長く短い距離を走り切り、患者は処置室内へ搬送された。
「まだ脈は触れてるな!?」
 待ち構えていたスタッフが、一斉に患者をストレッチャーから持ち上げた。
 今日のメンバーは、普段の常盤木チームではない。
 七海が今ここにいるのは、たまたま実習教官として来ていただけだからだ。
「常盤木、とりあえず先に強制換気するぞ」
 当然、本来の日直である医局長もいる。
 ある意味、心強い面子だ。
 助手が、非常勤バイトと、研修医、実習生のみ、と言うことを除けば。
 気を取り直して、とにかくまずは換気だ。
 医局長が、胃に空気が入らないように食道を抑えながら、バッグマスクで患者の鼻と口を覆った。
 そこまで準備した状態で、彼は換気の役目を朝日にバトンタッチした。
「普通の換気より、かなり力が要るけど、しっかりな」
 医局長の言葉に、彼女は無言で頷いた。
 緊張しているのか、額に汗が滲んでいる。
「遠藤、リザーバーに酸素繋げ。それが出来たら挿管準備。チューブは1mm」
 七海から要に指示が飛んだ。
「はいっ」
 人の作業を見守っている場合ではない。
 要は素早く酸素のチューブを引っ張ってきた。
「あ、挿管チャレンジするの?」
 医局長がやや難色を示した。
 手間取ると致命傷になるからだ。
「何てたって、研修と実習ですから。ちょうど昨日質問貰ってた病態ですしね。輪状甲状靭帯を切開する方が手っ取り早いですけど、遠藤はともかく、朝日は挿管できなきゃどうしようもないでしょ」
「まぁ、そりゃそうだが」
「救急隊でどこまでやってもらうか、ってことについては、これからガイドラインがどういう風に改正されていくのか見ものですけどね。とりあえず正確な胸骨圧迫は当たり前として、せっかく法律上許されている処置なんですから、ルート確保、挿管までやって貰えるならやって貰いましょうよ。すぐに受け入れ先が決まるとは限らないんですから」
 その言葉に、要は一瞬自分の指先が強張るのを感じた。
 受け入れ先が決まらず、手遅れになる。
 稀だと思っていたそんな事例は決して少なくないのだ。
「救命士の挿管が不確実だと言うなら、確実に出来るようになってもらえばいいんです。片肺挿管や食道挿管にならないように訓練する機会が、もっとあればいいんです。何てたって、救命に従事する人間の中で、一番最初に患者に接するのは救急隊なんですから」
 救急救命の大原則に、救急蘇生ABCというものがある。
 AはAirway、気道。
 BはBreathing、呼吸。
 CはCirculation、循環。
 何はさておき、これをまず確保することが救命の第一義という訳だ。
 間違いの無い気道確保と、適切な呼吸の確保。
 そして、質の高い胸骨圧迫による血液循環の補助。
 これが出来ていなければ、その先の治療の効果が、がくっと落ちる。
 あるいは全く効果が得られない。
 だから、医師や看護師だけではなく、救急診療を行う医療従事者は、これらの手技を的確に習得しているべきなのだ。
 それぞれの役割を担う人間が、十全にその技能を生かせるシステムになれば、もっと救命率は上がるはず、というのは七海の持論である。
「それじゃ、挿管します。朝日、リザーバー外して」
「はい」
「遠藤は患者の胸を押して。」
「はい」
「朝日、こっち回って来い」
 朝日が自分の横に立つのを確認して、七海がチューブにスタイレットを通した。
 スタイレットの見た目は、バーベキューに使う金串と、少しだけ似ている。
「スタイレットの先をちょっとだけ出して…今から挿管するからよく見てろ。今、腫れ上がって塞がった咽頭から、胸を押された圧力で泡が出てきてる。ここがチューブの通り道だ」
「すごい…。孔なんて、全然見えないのに」
 七海の挿管はほとんど神業だ。
 髪の毛1本でも通りそうな孔があれば、そこから自在に管を通してしまう。
 それは、回復期の患者の身体の負担を出来るだけ抑える事に有用な手技だ。
 誰だって、切らずに済ませられるなら、切らない方が良い。
「…ここに、これを  通す」
 要の立ち位置から詳細は見えないが、七海の顔が緩んだところを見ると、成功したようだ。
 ところが  
「きゃあっ!」
 朝日が悲鳴を上げた。
「騒ぐな! 家族に聞こえたら、不安にさせるだろ!!」
 七海がぴしゃりと叱り付けた。
「す、すみませんっ」
 何があったのか、と要が覗き込もうとすると、医局長に肩を叩かれた。
「遠藤、ドレナージ」
「はっ?」
「喉頭蓋が炎症起こしてる状態で挿管すると、派手に出血するんだよ。だから、血液の吸引と、あと痰が溜まってたらそれも除去。ほれ、さっさとしろ」
 べしっと医局長に背中を叩かれた。
「は、はい」
 ドレーンチューブで、患者の口腔内に溜まった血液を吸い出し、咽頭に張り付いている痰を除去した。
「OK。次は、100%酸素吸入」
 口腔内の確認が出来ると、七海は再び高濃度酸素の投与を指示した。
「100%入れたら、あっという間にCO2ナルコーシスに陥って自発呼吸しなくなるぞー」
 と、言いながら、医局長が100%の酸素を流し始める。
「その時は、医局長が呼吸器科に頭下げてくださいね」
 CO2ナルコーシスという状態は、手っ取り早く言えば、呼吸不全の患者に高濃度の酸素を投与し続けると、「呼吸しなくても酸素がいっぱいあるから、呼吸はサボっていいよ」という判断を、脳がしてしまう事だ。
 しかし、人工呼吸器を繋いでいれば自発ではなくても呼吸は出来るので、別に死に至る訳ではない。
「俺が呼吸器科に怒られるのかよ!」
「だって、医局長なんだから。現場責任者でしょ」
 医局長の抗議をさらっと流してしまった。
 こういうところで、七海は遠慮が無い。
 七海曰く、呼吸不全で全身チアノーゼの状態の患者捕まえて自発呼吸の心配していてどうするか、と言う事らしい。
 それより、何でもいいから脳に酸素入れる事を考えろ、と。
 他科の医師に嫌われる訳である。
「おい、聞いたか遠藤。部下のクセにこの遠慮の無さ…! 苛められてる俺ってかわいそうだよな!?」
「…そう言いながら、ガンガン流してますね、酸素」
 何を隠そう、酸素のバルブを開けているのは他ならない医局長本人だ。
「あっはっは。そうだっけ? そんじゃ、次は抗生物質だ。遠藤、輸液ラインは取ってあるよな? 側注で薬入れろ」
 要は、医局長  小田切という医師が未だに掴めなかった。
 真面目なんだか、フザケてるんだか。
「抗生物質、側注完了です」
 輸液ライン、あるいは輸液ルートを取る。
 それは、点滴用の針を静脈に繋いで置くことを指す。
 ここに生理食塩水や体液に近い成分の電解液を流して、必要に応じて薬剤を混ぜる。
「おし、じゃあ俺は抜けるぞ。呼吸器科に打診してくるから、後は宜しくな」
 ひらひらと手を振って、医局長は処置室から退室した。
 とりあえず、緊急事態は去ったようだ。


前頁ヘ戻ル before /  next 次頁へ進ム

+++ 目 次 +++

PAGE TOP▲