scene.8 短くて長い廊下

 医局長の雑誌のせいで、朝っぱらから散々な目に遭った。
 職員食堂で早めの食事を摂りつつ、要は大きな溜息を漏らした。
 目の前のトレイに並んだ料理はほとんど手付かずだ。
 いや、手付かずと言うのは正確ではないかもしれない。
 目の前の料理は、要が、箸で突いては離し、突いては離しと繰り返すので、すっかり原形を失ってしまっていた。
(うー…。最悪だ……)
 朝日はともかく、七海にまで変な印象を持たれたら、目も充てられない。
 結局、あの後二人はそのまま実習に入ってしまって顔を合わせず仕舞なのだ。
(あのオッサン…マジで最悪だ)
 普段、上司に向かって間違ってもオッサンなどと言ったりしない要だが、この時ばかりは例外だった。
「時々、度が過ぎるんだよな、あの人は…」
 ボヤいたところで、仕方が無い。
 そうこうしているうちに、休憩時間も後10分を切った。
「さて、と…。そろそろ戻るか」
 セットのコーヒーだけを胃に流し込み、要は職員食堂を出た。
 食堂から医局への帰り道、一般外来の待合を通る。
 午後の診療開始を待つ患者で、座席は一杯になっていた。
 午後は基本的に予約診療の患者がほとんどだ。
 だから午前に比べればこれでも人は少ない方だ。
 それでも、外来が開いている間の救急室は本当に重症者のみが搬送されてくるので、患者の判別  トリアージと呼ばれる仕事が、少しだけ楽になる。
 外来の前を通過し、時間外窓口の横に差し掛かる。
 今は人けの無いはずのその場所に、うずくまる人影が見えた。
 三人ばかり、固まっている。
「どうしました!?」
 要は急いでその場所へ駆け寄った。
「あっ、遠藤先生!! 大変なんです!」
 その場にいた人間のうち、一人は朝日ゆかりだった。
 しゃがむ朝日の前に、男性が横たわっている。
 その向かい側には、家族らしき女性がやはりしゃがみ込んでいる。
「私が…っ」
 朝日はすっかり動転している様子だ。
「朝日さん、まず落ち着いて。そちらはご家族の方ですか? この方のお名前は?」
 向かい側の女性に声を掛けた。
「あ、あの、宮本 ヒトシです」
 触診で確認出来る範囲のバイタルチェックを始めた。
「宮本さん、宮本 ヒトシさん、宮本さん!」
 徐々に声を大きくしながら、三回呼び掛ける。
 左右の肩を場所を変えて叩く。
 煩そうに顔を顰めるのを確認。
「意識レベル200、朝日さん、どういう状況か説明してくれる?」
「は、はい。宮本さんは、喉の痛みがひどくて、とても翌日まで我慢できそうもないということで、午後診療を受ける為に来院されたそうです」
 朝日の説明に、女性も頷いている。
「それから?」
 朝日に説明の続きを促しつつ、要は引き続きバイタルサインの確認を続行した。
 患者の顔に耳を近付け、そのまま視線を胸郭に移す。
 鼻腔からも胸郭からも呼吸は確認できない。
 更に、右手人差指と中指の腹を、頸動脈に当てた。
(呼吸なし…ギリギリ触知するけど、かなり徐脈…マズイな、もうチアノーゼが出かかってる)
「私がそばを通りかかった時、床に、こう…ちょうど項垂れるような感じで手を突いて俯いておられました」
 そう説明しながら、朝日が床に四つん這いに近い格好をしてみせた。
 唾を飲み込むことすら出来ないくらいの、ひどい痛みだったようだ。
 朝日の手を突いた横の床が、涎で濡れている。
「それで、あまりにしんどそうにされてたので、"診療が始まるまで、横になってたらいかがですか?"って声掛けたんです、私。今思えば、身体を横にするのを嫌がってたような気がするんですが、少し強引に…。
 …そしたら、いきなり呼吸が止まってしまって。私…私が…」
 説明する朝日の顔は真っ青だった。
 今の説明で、要は一つだけ思い当たる可能性があった。
 時々、喉に炎症を起こしている場合、横に寝かせた途端気道が塞がって窒息状態に陥ることがある。
 つい先日、たまたま七海に聞いたばかりの話だ。
 院内連絡用PHSを取り出すべく、白衣のポケットを探る。
「朝日さん、ストレッチャーお願いします。ERに運びます」
「はい!」
 朝日の背中を見送りつつ、医局にコールを入れる。
「遠藤です。一般外来1F東廊下で、急患です。JCSで意識レベル200、呼吸停止、徐脈が進んでます。急性喉頭蓋炎の疑い、至急ERへ搬送します」
 受話器の向こうは七海だった。
「了解。急げよ」
 短く一言そう応えて、彼は通話を切った。
「遠藤先生、お待たせしました!」
 通話を切った瞬間、朝日が戻ってきた。
「じゃあ、床に毛布広げて。その上に宮本さんをのせるから、朝日さんは足の方よろしく」
「は、はい」
「せぇの、1…2…3!」
 毛布に乗せたまま、患者を平行に持ち上げ、ストレッチャーに乗せる。
 場合によっては4人がかりの時もある。
 移動は患者の身体に極力負荷をかけないのが基本だ。
「じゃ、処置室に移動しますので、付いてきて下さい」
 心配そうな顔をしているその女性は、まだ何が起こっているのか理解しきれないでいる様子だった。
(この場合、ERに入るまでは理解しないで欲しいのが、本音だな…。今パニックになられると、正直キツイぞ)
 ここには、誰が何を言おうと、まだ無資格の実習生とぺーぺーの研修医しかいないのだ。
 出来れば、その状況には気付かないでいて貰いたい。

 走れば僅か1分に満たない距離が、恐ろしく長く感じた。


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