scene.5 遠藤小児科診療所

 くさった気分のまま、要は1ヶ月ぶりくらいに帰宅した。
 下町の旧い小さな診療所。
 家も診療所も、老朽化して骨董品の如き佇まいだ。
(よく患者が逃げないよな、この建物)
 今時の病院はどこも洒落ていて小奇麗で、こんな木造平屋建ての診療所など、ほとんど見かけなくなった。
 どのくらい珍しいかというと、昭和前期のドラマを撮るために是非使わせてくれ、と頼まれた事があるくらいの代物だ。
 要の父親もまた、建物に見合った古臭い医者で、無駄な薬や検査が大嫌い。
 生活改善の指導と、最低限の投薬で快癒させようという儲からない医者である。
 昔ながらの馴染みのご近所さんは、今でもよく利用してくれているが、処方される薬があまりに少ないので、新興マンションに流れ込んできた人間なんかは、不安がって来たがらない。
(今は古馴染みがいるからいいけど、そのうち潰れるんじゃないか? うちの診療所)
 帰宅した要は、真っ先に洗濯物を洗濯機に放り込み、スイッチを入れた。
「干すのは夕方になっちまうけど、しょうがないな…」
 洗濯物はなるべく午前中に干したい要だが、とても洗濯が終わるまで起きてなどいられない。
 台所に行くと、ちょうど朝の診療を終えた姉が、昼食を摂っていた。
「あら、要。珍しいじゃない、家に帰ってくるなんて」
 姉は内科医だ。
 2年前から父の後を継いで診療所を切り盛りしている。
 姉の夫、つまり要の義兄がやはり小児科医で、おそらくこの診療所は彼が継ぐことになるだろう。
 そもそも外科を目指したのは、執刀医になりたかったという理由がまずあったのだが、姉が小児科医と結婚し、彼が入り婿になってくれると分かった時、これで自分が外科医なら、町の診療所としてはそこそこ科目が揃うではないか、と思ったのもあるのだ。
「自分ちに帰ってきちゃ悪いかよ」
「べっつにぃ? 最近全然帰ってこなかったじゃない。彼女でも出来て、同棲でも始めたのかと思ってたわけよ。…あ、それで帰ってきたって事は、もしかしてあんたフラれたの!?」
 医局長よりタチの悪い姉は、ニヤニヤ笑いながら、行儀悪くも煮物を突いていた箸を振り上げ、要を指した。
「不吉な事言うな! まだフラれてない! つか、別にケンカもしてないっつの!!」
 姉の箸を眼前から払って、要は抗弁した。
「ふぅぅぅうん。そーぉ。いるのぉ。彼女。ふうううううぅぅぅうううんんん」
 しまった。
 口が滑った。
 誘導尋問に引っ掛かってしまった。
 要は慌てて口を押さえたが、時既に遅しだ。
「ハメやがったな…!?」
 昨夜の医局長に引き続き、姉までも。
 引っ掛かり易い自分自身の単純な脳の構造を恨めしく思いつつ、アリスに出てくチシャ猫の様な顔で笑っている姉の顔を睨んだ。
「ハメて無いわよ。アタシは想像で言っただけ。認めたのはあんたでしょ?」
(最悪だ…この女)
 今日は女難の相でも出ているのだろうか。
 朝日と言い、姉と言い、ロクな目に遭わない。
「もう疲れてるんだから、ほっといてくれよ。もう、寝る。これでも当直明けなんだ」
 要はそのまま台所を出ようとした。
 それを、姉が引き止めた。
「待ちなさいよ。どうしたの、苛々して。あんたらしくないよ」
「別に。疲れてるだけだって」
「愚痴なら聞いてあげるから、吐いてから寝なさい。疲れが取れないわよ」
(いや、お前の場合面白がってるだけだって!)
 姉の人の悪さは、ER医局長…小田切を遥か上回っている。
 隙を見せたら骨まで噛み下されて何も残らない。
「いや…ホントに。別に何ってねぇよ。今実習生が入ってて、色々手順が狂ってペースが乱れてるだけだ」
 今言ったことは本当だ。
 仕事の中でも、七海一人で実習生と研修医は見れない。
 そのために、チーム編成が変わった。
 要は今、医局長のチームに入れられている。
 慣れないチームでの、リズムの掴めない手術が続き、精神的な消耗が激しいのだ。
 私生活では、今朝のような調子で始終実習生が七海に張り付いていて、まともに会話すら出来ていない。
 普段の2倍どころか、2乗の疲労感を感じていた。
「まぁねぇ…。職場恋愛って色々あるのよねぇ…。わかるわぁ、アタシもダンナとは職場恋愛だったしね」
 何も言ってないのに、姉が勝手に納得している。
「あれ…? 俺、相手職場って言ったっけ?」
 はて。
 要は首を捻った。
「今のあんたに、職場以外で出会いは無いでしょ」
 呆れた声で姉が応えた。
「そりゃ、そうか」
 冗談ではなく、医局に住み着きそうになっているくらいだ。
 病院外での出会いなどある訳が無い。
「で、どうしたの? 浮気でもされたの?」
 詰め寄る姉の目が輝いている。
「だから、モメてないって! ただ、向こうが実習教官になっちまったから、ただでさえ忙しいのに更に忙しくなって全然会えなくなったんだ。それだけだよ」
「実習教官? 結構年上じゃないの? 大丈夫? あんた単純だからね、遊ばれてない?」
 急に真顔になった姉が、詰め寄ってきた。
「遊ばれてねぇよ! うっせぇな、もう!!」
「ほーら苛々してる。察するに、その実習生とアヤシイってところかしら?」
 諸々の事情を知らない姉は好き勝手に想像を巡らせ、面白そうに言った。
「アヤシくねぇよ。ホントに、もう寝る」
 今度こそ姉の手を振り解いて、要は自室へ向かった。


前頁ヘ戻ル before /  next 次頁へ進ム

+++ 目 次 +++

PAGE TOP▲