scene.3 擦り抜ける指先

 要は、タイムカードを切ったその足で七海のマンションに向かった。
「1101-1336…これで、ENTER」
 ピー、と、甲高い音が鳴り、エントランスが解錠した。
 いつもは二人で乗るエレベーターに一人で乗り、主不在の部屋を訪う。
(却って緊張するな、こりゃ)
 そーっと七海の部屋のドアを開いた。
 必要最小限の家財道具すら揃っていない七海の部屋は、ただでさえ殺風景なのに、人気が無いと尚のこと無味乾燥な空間に感じる。
 七海はほとんど自宅へ帰らず、医局に泊まり込んでいることが多い。
 ただ単純に仕事が忙しいからだけではない。
 この部屋に一人で居ると、そう感じるのだ。
 生き物の気配がしない。
 湿度とか、温度とか、有機的な気配が無い。
 時計に目を遣ると、朝9時を少し回っていた。
 通勤通学の時間も過ぎ、外はひどく静かだ。
(まだ、課外授業終わらないのかな)
 既に、退勤時刻から2時間が過ぎている。
 今回の実習生、朝日ゆかりは相当真面目な生徒のようで、時間通りに七海が解放された試しが無い。
 七海は七海で、やる気のある人間には寛容なところがあり、許す限りの時間を彼女に割いてやっている。
 お蔭様で今朝のような状態がここ2週間ずっと続いていた。
(まぁ、実習って言っても残り2週間だしな)
 合計4週間の実習は、今日でやっと半分だ。
(実習生が熱心なのは結構なことじゃないか)
 要は無理やり自分に言い聞かせた。
 たとえ欺瞞でも、それで納得するしかない。
 一際大きな溜息を吐いた時、ドアの解錠する音が聞こえた。
「ただいま…っと」
 草臥れた声が、玄関から聞こえた。
「お疲れ様です」
 要は慌てて跳ね起きた。
 そして、玄関まで迎えに出ると、紙袋二つ分の洗濯物を提げた七海が立っていた。
「良かった。何の番号か通じたんだな」
 七海が笑った。
「何とか。時間指定が無くて、何時に来ればいいのか分からなかったんで、とりあえず退勤したその足で寄ったんですけど」
「別に何時でも良かったんだけど。それにしても、先に医局長がメモに気付いたのはヒヤッとした。本当は、白衣脱いだら気付くだろう、くらいのつもりだったんだけど。お前、毎回几帳面に畳むから」
 七海が苦笑いして要を見上げた。
「…俺も、中身を理解してからビビりました…」
 何せ、医局長には昨日バレたばかりなのだ。
 そして、七海にはそれをまだ告げていない。
 だから、今はまだ、あまり突っ込まれる要素は増やしたくない。
「別に、特に隠してる訳でもないんだけどな?」
 狼狽している要に、少し困った顔で七海が言った。
「え? そうなんですか?」
 要は、てっきり隠さないといけないものだと思っていた。
 自分達の場合、きっと年上で立場も上の七海の方がより叩かれるだろう。
 だから、七海のためにも絶対病院の人間には知られてはいけないと思い込んでいた。
 それだけに、医局長にバレてしまったことをどう報告したものか、逡巡していたのだ。
「本当に、バレても平気ですか?」
 再度、確認。
「別に、平気。  ただ、医局長はすぐヒトを揶揄うから、あんまり露骨にソレって分かるのはなぁ…って思うくらいだ」
「ああ、確かに」
 医局長は他人をおちょくるのが大好きだ。
 要自身も昨夜早速茶化されたばかりである。
「その医局長なんですけど…実はですね。昨日、ついにバレました」
 恐怖の報告だ。
「え?」
「すみません。尋問に引っ掛かってしまって…」
 深々と頭を下げる。
 そして、恐る恐る昨夜の経緯を報告した。
「…あ、そう。まぁ、いつか知れることだから、いいんじゃない? 別に」
 七海が、下げた頭の旋毛をぐりぐりと押しながら応えた。
「…それだけっすか?」
 本当に淡白な反応で、要は拍子抜けしてしまった。
「それより。遠藤、もう朝食は済ませた?」
 要が脱力していると、七海がその顔を覗き込んできた。
「いえ…っ、まだです」
 急に顔を近付けられると、ドキッとする。
 そう言えば、これだけ間近に顔を見るのも久々だ。
 七海の背丈は要の鼻先辺りまでしかない。
 だから、いつも首を真っ直ぐ伸ばして要の顔を見上げる。
「そうか…僕は朝日と食べちゃったんだよな。どうする? 何か食べに出る? それとも、買ってくるか?」
(あ…何だ。食べちゃったのか)
 一応、待っていたのだが。
「いや、そんなに腹減ってないですから  
 食事を済ませてきた相手を伴って外食する気にはならないし、久々に一緒にいられる貴重な時間を買出しなんかで減らしたくない。
 そのために、一食くらい抜くのはそれほど苦痛とは思わない。
「そ、か…。悪かったな、連絡できなくて。考えてみたら、携帯にメールくらい入れられたのに」
 七海が溜息を吐いた。
 院内にいる間は、七海は携帯を持ち歩かない。
 常に医局のロッカーに仕舞いっぱなしなのだ。
 そのためか、プライベートタイムでも、自分が携帯を持っている事をすぐに忘れてしまう。
「仕方ないですよ。実習中ですからね。珍しくやる気の前面に出てる子で、良いじゃないですか」
 そう言って笑ったものの、半分は強がり  と言うか、見得だった。
「まあね…。明らかにやる気の無いヤツが来るよりは遥かに、いいんだけど」
 やや困った顔で、七海が溜息を吐いた。
 何か彼女には問題があるのだろうか。
 それとも、彼女の質問攻めにさすがの七海も辟易してるのだろうか。
(時間外に質問しに来る回数、今までの実習生の5倍以上だもんな)
 いくら熱心でも、それはちょっと  という頻度である。
 実習教官は、専従教官ではない。
 あくまで現場で職務をこなしつつ、実習生を指導しなければならないのだ。
 実習そのものに大幅な時間を割くのは、業務上現実的ではない。
 と言うことは、実際に宛がわれるのは、各教官のプライベートタイムに他ならない。
「じゃ、とりあえず洗濯回しますか」
 教官業務で要が出来ることは何もないが、日常生活ならフォロー出来る部分はある。
 足もとの紙袋を拾おうとした要の手が、七海に阻まれた。
「とりあえず風呂でも入ろう? お前も当直明けなんだろ?」
 七海の腕が、するっと首に絡み付く。
 普段のタフな仕事ぶりからは、想像つかないような、華奢な腕。
 密着する身体。
 薄い布を隔てて、体温が染みてくる。
「一緒に…ですか?」
 彼の誘い方は、意外にとてもストレートだ。
「いけるだろ。広いから、ここのバスルーム」
 熱っぽい目が、要を見上げている。
 いつも、その目に要は絡め取られてしまう。
 そのまま、要は吸い寄せられるように七海の頬にキスをした。
 髪が触れて、七海はくすぐったそうに笑った。
「じゃあ、用意  しますね」

 そう言って七海から身体を離した瞬間、インターフォンから、やたら大きな呼出音が響いた。


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