scene.2 実習生

 午前7時。
 ごく普通に当直が明けた。
 申し送りが終わる直前、本日の実習を終えた七海が医局に戻ってきた。
「お疲れ」
 通りすがりに要の背中を軽く叩いて、彼は自分のデスクの方へ足を進めた。
「あ、お疲れ様です」
 七海の声を聞くのも20時間ぶりくらいだろうか。
 それも仕事単位の話で、私事の会話となると、2週間近く交わしていない。
 なまじ中途半端に顔を合わせる分、余計しんどさを感じる。
 七海の明日のシフトは当直。
 おそらく一度自宅に戻るはずだ。
 要は、本人さえ了承してくれれば、夕方辺り七海の部屋に行こうかと考えていた。
 ひと寝みした後なら、夕食ぐらいは一緒に食べれるかもしれない。
「お疲れさまでーす!」
 七海に声を掛けようとした時、要の横腹を押し退ける様に実習生が入ってきた。
 彼女は要などいないかのような様子で、ぶつかった事に触れもせず、そのまま部屋の奥へ進んでいく。
(うお。何だ、今押しのけられたぞ…!?)
 朝日ゆかり、七海が担当している救急救命学科の実習生だ。
 彼女は基本的に真面目で熱心な学生なのだが、何故か要は彼女から敵意を感じていた。
(あの子に、俺…何かしたっけ?)
 釈然としない何かを感じつつ、七海の前に立つ実習生を見遣る。
 本来なら、救命士が教官になるべきなのだろうが、あいにく桜川ERには救命士を入れていない。
 だから、医師か看護師が実習教官を務めることになっている。
「先生、教えて欲しいところがあるんですけど」
 朝日は、ポケットからメモ帳を取り出した。
「どんなこと?」
 七海は面倒そうな顔をせずに応えている。
 研修医には冷たいが、実習生には意外と親切なのだ。
「気管内挿管なんですけど、気道が狭くなって入らない時とか、どうするんですか?」
「その場合、とりあえずアンビューでも、リザーバーでもいいから、酸素繋いで強制換気する。入らないものをいつまでも無理にやっていたら、その間酸素の供給ができない訳だから余計悪い。とにかく、身体の中に酸素入れるのが大事」
「ハイ」
 彼女は熱心にメモを取っている。
「例えば気道閉塞の場合だけど、いくら隙間が無いって言っても、針も通らないなんてことは無いよな?」
「えーと…多分、そうですね」
 確かにいくら気道が狭まっても別に癒着する訳ではないのだから、そりゃ針くらい通るはずだ。
 要は横耳で会話を聞きつつ、一人頷いていた。
「つまり、細いチューブなら、やり方次第で挿管できるんだ。まぁ、医者の場合は相手が小児だったら輪状甲状靭帯にサーフロー針刺して直接酸素繋いじゃうけど。 救命士の場合法律上不可能だから、細い管に変えてみて挿管に再チャレンジするか、病院がすぐそこまでのとこに来てたら、そのままバッグマスクで凌ぐかだな。 結論としては、無理な挿管で時間が掛かるよりは、バッグマスクに酸素繋いで強制換気した方が、患者にはよっぽど有益。
 僕の私見ではそんな感じかな。後で他の先生にも聞いてみて、いろんな対処法を検証してみるといい」
「ハイ、ありがとうございます」
 ゆかりが一礼してメモをポケットにしまった。
 今だ、と要が声を掛けようとした瞬間、再びゆかりが口を開いた。
「先生、もう少し時間あります? あるんだったら、もちょっとお話ききたいんですけど」
 声を掛けるべく上げた要の手が、空しく宙を泳ぐ。
「まあ、ちょっとくらいならいいよ」
 実習生に質問されるのは教官の役目。
 これも仕方が無い。
 要が肩を落としてうなだれていると、背後のドアが静かに開いた。
「アレ? 遠藤、背中になんか付いてるぞ」
 一番最後に入ってきた医局長が、要の背中から何かを剥がした。
「あ、スミマセン」
「ほいよ」
 医局長から、小さく折り畳まれた紙片が手渡された。
 セロテープが付いている。
「そこら辺に置きっぱにしてたメモでも付いたんだろ。だらしないねぇ、今時の若者は」
 医局長がニヤっと笑った。
「手術衣のまま仮眠してしまう人に言われたかないです! やな話しますけど、昨日医局長が寝た後のシーツ、血痕付いてましたよ!?」
 臨時の指導医に一応の抗議をしつつ、4ツ折りの紙片を広げた。

 1101―1336
 19750729

 謎の番号が書かれている。
(何だ…?)
 薬品番号でも、物品番号でもない。
(いつ付いたんだ、こんなの)
 顔を上げると、七海がこちらを見ていた。
(あ、さっきか!)
 軽く叩かれた背中を思い出した。
 どうやら、七海の悪戯のようだ。
(悪戯…?)
 それにしても、何の番号だろう。
(1101…1101…あれ? これ、自宅の部屋番号だ)
 七海の自宅は病院近くの分譲マンションの11階の南端、1101号室だ。
(これが部屋番号なら、続く番号は…もしかして、エントランスのパス? だとしたら、下段は部屋の数字錠か!)
 七海のマンションは、パスの入力で解錠するタイプの鍵だ。
 要は何度も彼の家に泊りこんでいるが、一緒に行動している流れで訪れるのが常で、パスを訊く  つまり合鍵を貰うようなやり取りは一切してこなかった。
 一つには、四六時中行動を共にしていたので必要無いというのがあった。
 しかしそれ以上に、ただ付き合っているというだけで合鍵を貰おうと言うのは、少々けじめが無い、そんな気がするのが理由だ。
 大学時代もやはり同じような考えだったので、それを堅苦しく思われて自然消滅した事も、何度かあった。
 それでも、今受け取った『鍵』は素直に嬉しかった。
 嬉しいと感じるようになった自分にも驚いたが、現実的に自宅で落ち合うくらいしか、ゆっくり話をする機会は得られそうも無い。

 要は、そっと紙片を白衣のポケットにしまった。


前頁ヘ戻ル before /  next 次頁へ進ム

+++ 目 次 +++

PAGE TOP▲