scene.1 喫煙室

 8月。
 桜川救命救急室は、俄かに騒がしくなった。
 実習シーズンである。
 とは言っても、その時期にしか実習生が来ないのかと問われれば、実は年中いるのだが、桜川病院では何故か毎年7月8月に実習生が集中する。
 桜川病院は教育指定病院だ。
 だから、母体である城聖学園大学以外の各大学…各医専からも実習生を受け入れているため、常にどこからかお預かりした学生が院内に何人かはいるのだ。
 しがない研修医である要が、直接実習生に指導する事はない。
 しかし、熟練したスタッフが指導教官として手を奪われてしまうので、まるで無関係とも言い切れない。
 特に、今回の実習に関しては大いに関係アリだ。
 それは、要の指導医たる常盤木七海が救命実習生の指導教官に回されてしまったからだ。
(あーあ…早く終わらねぇかな、実習期間)
 ただでさえ忙しい救急医。
 そこへ持ってきて実習生の指導にまで入るとなると、もはや七海は自宅どころか医局ですら捕まらない、レアキャラの扱いだ。
「2週間か…」
 要は深々と溜息を吐いた。
 七海不在の当直も、今日で2週間。
 正確には不在なのではなくて、実習期間中一時的に要が医局長預かりの身分になった。
 本日も医局長と二人、夜間救急の時間帯に入って、約2時間。
 既に二人の救急搬送者を受け入れていた。
 いずれも急性アルコール中毒の患者で、幸い処置が早く大事には至らなかった。
 どちらも既に病室に移し、病棟の看護師に申し送りも済ませている。
「遠藤もなかなか手際が良くなったなぁ。ERに入局して、もう7ヶ月か」
 医局長がしみじみと頷き、そんな言葉を口にした。
「そ、そうですか?」
 人を揶揄するのが趣味の相手に唐突に褒められ、何のネタを振ろうとしているのかと、要は身構えた。
 遠藤要は、やっと2年目に入ったばかりの研修医だ。
 前期研修の前半は内科。
 後半になって外科、そして救急へ。
 ERに移ってから、今月で8ヶ月。
 叱られる回数こそ数限り無いが、褒められる場面なぞ数えるほども無い。
「おいおい、そう構えるなって。これでも俺は真面目に褒めてんだ。それより、どーよ? 常盤木ナシの当直は」
 真面目に褒めている、と言う割に医局長の顔はにやにや笑いが張りついている。
「そりゃ、俺だっていつまでも指導医がいないと仕事になりません、って訳にはいきませんよ。むしろ、常盤木先生はよく付いていてくれる方ですし。内科の指導医なんて、当直ん時、ヘタしたら病院からいなくなったりしてましたもん」
 要の指導医である常盤木七海はその辺りが非常に真面目で、要を一人で現場に放り出す事はほとんど無かった。
 研修医は嫌いだの、指導医は面倒だの公言して止まない割に、彼は非常に真面目な指導者だった。
「研修医放り出して病院抜け出す内科の指導医は問題外として  お前も言うようになったねぇ。オジサンは嬉しいよ」
 大袈裟に涙を拭う仕草をしている医局長に、要は白けた視線を送った。
「はいはい。そんな芝居がかって言われても嬉しくないっす」
「あーあ、可愛げまでなくなってやがる。まぁ、本当に成長したよ、お前は。特に縫合は中々綺麗に出来てる。早いとは言わんが、丁寧だ。あれならあまり痕が残らなくて済むだろう」
 真面目な顔で言い直す医局長の言葉を、今度は要も素直に受け取った。
「…ありがとうございます」
(珍しいな…医局長がこんな真面目に人を褒めるのは)
  で、だ。お前らどうなってるんだ?」
 真面目な顔を見せたのも束の間、もう彼はいつもの企み笑いに戻っていた。
「は…? 何がですか?」
 質問の意図が掴めず、要は医局長に問い直した。
「常盤木と。どうなってんだ? つきあってんのか?」
 医局長の問いに、要の背筋が一気に冷たくなった。
「な…な、ななに、何言い出すんですか!!」
「……遠藤、もう少しポーカーフェイスを身につけた方がいいぞ。顔に出過ぎだ、お前」
 目に見えて狼狽えている要を、医局長が呆れ顔で見遣った。
「……っ」
 以前にも、要は医局長に顔色から色々読まれている。
「なーんてな。いや、どっちかって言うと常盤木から判ったんだけどな。遠藤がERに来た頃からアイツがお前に気があったの、俺知ってたから。そうか、陥落したか」
 医局長は胸ポケットの煙草を探り、すぐに空箱に気付いて握り潰した。
「ちっ。ついでに一服しに行こうかと思ったんだが、切れてたか」
 つまらなそうに舌打ちをして、今度はズボンのポケットを探り始めた。
 煙草を買うための小銭を探しているらしい。
「煙草なら、俺持ってますよ。赤マルでよければ」
「何でもいいや。じゃ、他のスタッフに断り入れて一服行こうや」
 言うなり、医局長は腰を上げた。
 そして、手近にいた看護師に喫煙室にいる事を伝えると、要を手招いた。
 夜の喫煙室は、青い闇に溶けてどこか異世界の様な印象だ。
 医局長は要の煙草の箱から二本取り出し、煙草の方を要に返した。
 箱はすかさず自らの胸ポケットに仕舞い込む。
「医局長ーっ、貧乏な研修医から貴重な煙草を巻き上げないで下さいよ。ただでさえ、七海さんに見つかると取り上げられるんですから」
 つい、バレた事で気が緩んだのか、要の口から七海のファーストネームが洩れた。
 いつからか、七海はプライベートに要から"先生"と呼ばれるのを嫌がるようになったからだ。
「七海さん、ねぇええ。ふーん?」
 煙草の箱を抓み上げ、要にチラつかせながら医局長がにやにやと笑った。
「…いいです。煙草、上納します。お納め下さい…」
 自らの失策に項垂れつつ、要はほぼ新品の貴重な煙草を諦めた。
「口止め料が三百円かそこらで済むなら、御の字だろうが」
 悪びれない顔で、医局長は強引に手に入れた煙草に火を点けた。
「ホラ、点けてやる」
 要の前に差し出されたのは、彼のお気に入り  ロンソンのオイルライターだ。
 かなり長い間使い込まれたものらしく、元はシルバーだったと思われるそれは、良い感じに飴色を帯びていた。
「しかし、そうか。ヤッちゃったか」
 溜息混じりに医局長が煙を吐いた。
「そんなデカい声で"ヤッた"とか言わないで下さい」
 バレた相手が悪過ぎた、と思いつつ、要はがっくりと肩を落とした。
「まあ、渡辺教授にバレない様に気をつけるんだな。常盤木の後見人は、あの人だから。バレたらどんな僻地に飛ばされるか分からんぞ」
 ER室長の渡辺教授は、七海の親戚だ。
 実家が長野にある七海の、こちらでの後見人という訳だ。
(そうか…そう言えば、医局長だけは七海さんと教授が親戚だって知ってたんだっけ)
 七海は、派閥争いに巻き込まれるのを嫌がって、教授との関係を院内では明らかにしていない。
(不思議な人だよな、医局長も。何となくするするっと心の中に入ってくるというか…。ただふざけてる様にしか見えないのに)
 要自身もだが、七海や、他のスタッフも、この飄々とした人物にはどこか一目置いている。
 異例の若さで医局長に抜擢されたその人望は、なかなかのものだ。
 それ以上あまり話す事もないまま、小さな赤い火は煙草の根元まで届いた。


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