scene.7 Ancient times
救急車が去った後、七海はすぐにERに連絡を入れ、救急外来と外科の手配を済ませた。
今日の日直は医局長もいる。
受け入れ態勢に問題は無いだろう。
ふと気付くと、二人してずぶ濡れの血塗れ、到底表を歩ける姿ではなくなっていた。
特に、ずっと患者の横で止血していた七海は、水も血ももろに被って入る為、外を歩いたら即通報されそうな出で立ちだ。
「あーあ、これじゃ食事にも行けないな」
溜息混じりに七海が笑った。
「そうですねぇ。この格好じゃ博物館の外に出れませんし、とりあえず売店でお土産用に販売してるTシャツでも買ってきますよ」
要は、今度は自分の財布を手に売店へ走る。
黒にシルバーでTレックスのコラージュがプリントされたシャツを2枚買ってみた。
シルエットだけの姿になると、Tレックスはまるでゴジラのようだ。
後は博物館のスタッフが着替える場所を提供してくれたので、とりあえず着替えるだけ着替えさせてもらった。
ズボンだけはどうしようもなかったので、とりあえず一度七海のマンションへ戻る事にした。
「うー、自分で自分が鉄臭い」
帰りの道すがら、要の3歩前を歩く七海がボヤいた。
血液の匂いだ。
上から水を落としていた要より、患者の隣で止血していた七海の方がより派手に汚れている。
既に生乾きになっている髪も、血液に濡れたのだろうが、パリパリに固まっていた。
「とりあえず、早く風呂入りたいですね」
七海より被害は少ないが、要自身もそれなりに気持ち悪い。
とにかく早く洗い流してしまいたかった。
「全く、何て休みなんだろうな」
七海が天を仰いだ。
「ま、七海さんらしいというか…」
「何で僕限定なんだ」
要の台詞に、七海は不服そうに口唇を尖らせた。
「少なくとも、俺はそこまで引きが良くないですから」
七海の当直の夜は重症者が多く搬送されてくる、桜川ERの法則。
彼の患者運の引きの良さは半端ではない。
「ふん」
さすがに自覚があるらしく、それ以上彼は言い返してこなかった。
「発掘体験、しそこなっちゃいましたね」
この辺が引き際、と要は話題をすり替えた。
結局さっきの騒ぎで、とうとう肝心の発掘体験はせずじまいに終わってしまった。
「ああ、うん。ま、それはいいよ。いつか、本当の発掘に行くから」
そう言って七海は笑った。
要の心臓が跳ね上がる。
いつか は、いつなのだろう。
「あの…常盤木先生は」
医師を辞めるつもりなのか。
その問いが怖くて口に出せなかった。
「だから、七海でいいって。
まぁ、そのうち。定年にでもなったらそんな第2の人生もいいかな、と思ってさ」
要の心の声が聞こえたのか聞こえないのか、七海はそんな事を言った。
「定年すか。それは、また長期遠大計画ですね」
内心で胸を撫で下ろしつつ、要は応えた。
「今はまだ…やらなきゃいけないことがあるからな」
それは、諦めでもなく、使命感でもなく、どこか悟った声だった。
「医師として?」
「というか、人として」
「なんつか、すごい覚悟ですね」
「覚悟とか、そういうものでもないんだ。
僕は親戚の 渡辺教授の強い勧めで医師になった。
きっかけはどうあれ、そういう能力を身に付けた。だから、その技能で出来るだけのことはする。それだけだ」
そう言い切った七海の顔は、妙に真っ直ぐで迷いが無い。
そういうところで、彼はいつもシンプルだった。
それにしても と、思うのは、七海と教授の関係だ。
要にとっては、未だに大きな謎だった。
ER室長の渡辺教授と七海が親戚だという話は、つい先日聞かされたばかりだ。
しかし、いくら親戚とは言え、七海の進路の決定権まで教授が持っているというのは、一体どういうことなのだろう。
これほど他に好きな分野があったにも拘らず、七海はそれで良かったのだろうか。
「遠藤も一緒に行くか?」
すっかり黙り込んでしまった要に、七海がその顔を覗き込んで言った。
「えっ? どこにですか?」
ぼんやり考え事をしていたので、いきなり何の話を振られたのか、要は分からなかった。
「発掘。二人とも定年したら、一緒に行く?」
どうも、彼が言っているのは発掘の話の続きだったようだ。
(あ、何だ、いきなり話題が遡ったのか…)
ありがたいお誘いだが、実質、年齢が離れている以上定年時期も離れている。
だから、これは彼の冗談なのだろう。
本当だったら、それはとても嬉しいのだが。
「定年後、ですか」
こういう冗談に、要はどう返せばいいのか分からない。
戸惑ってしまった結果、言葉が詰まってしまった。
「…ごめん。そんな先まで一緒にいるとは限らないよな。冗談だから、忘れてくれ」
その沈黙をどう受け取ったのか、少し寂しそうに笑って、七海が要から目を逸らした。
「ち、違います! 一緒にいるかどうかで詰まったんじゃないです! 普通に考えたら、俺の方が定年遅いじゃないですか。だから…その間、待っててくれる んですか?」
「あ、そうか。そう言えば結構離れてたっけ」
どうやら七海は、二人の間に年齢差があった事を忘れていたらしい。
「オチ付けてくれましたね」
呆れ顔でそう答えた要だが、本当は嬉しかった。
何十年も先の計画に自分がいたら、それは嬉しい。
先のことは分からないけれど、そんな未来があればいい。
そしていつか、太古の海の底を二人で歩く日が来るといい。