scene.6 応急と救急

 現場では相変わらず子供の鳴き声が響き渡っている。
「患部の下にバケツ置いてタオルで身体包んで、準備できたら、なるべく高いところから創部をめがけて水を落とせ。出来るだけ水圧を掛けるんだ。あと、その袋は捨てるなよ」
 言われるまま、左腕の下にバケツを置き、子供の身体をタオルで包んだ。
 そして、ミネラルウォーターの封を切り掛けて、ふと疑問が過ぎった。
「あの、創傷って患部を生理食塩水か滅菌水で洗うって習ったんですけど、ミネラルウォーターでも平気なんですか? あと、水圧って?」
「水圧で、表面に付いたガラスの粉をトバすんだよ。覚えといた方がいいぞ。処置室でもやることは同じだから。いちいち滅菌水とピンセットでなんかやってられない」
 ちょっと苛立たしげな声が返ってきた。
 慌てて要は水のペットボトルの封を切る。
「イタいからやだ!」
 その音を聞いた途端、子供が暴れ始めた。
「わ、ちょっと待って! 暴れないで!」
 血流を止めていた手を外され、七海が慌てている。
 親の方は医者だと分かって安心したようだが、子供の方は恐怖を覚えてしまったようだ。
「落ち着いて! これイソジンじゃないから!」
 珍しく七海が本気で患者相手に動揺している。
「あの。薬品名言っても普通分かりませんよ…。つか、一般的な感覚では、イソジンはうがい薬です」
 七海が普段相手にしている患者は、半数以上先に意識が無くなっているので、元気な患者を診る機会が少ない。
 なので、あまりいちいち相手の意思を確認する必要が無い。
(意外な落とし穴だったな)
「お母さん、息子さんの名前は?」
 要は隣でやはりおろおろしている母親に声を掛けた。
「え? 祐ですけど…」
「どうも。祐くん、こっちむいてー。これなに?」
 要は、博物館に入った時何となく回したガチャガチャから出てきた恐竜の卵をポケットから取り出す。
「たまご」
 まだら模様の卵に、子供の視線が釘付けになる。
「そう、たまご。なにがでるかなー。おっと! おっこっちゃった!」
 子供の膝の上に、わざと卵を取り落とす。
「たまごー」
 既に子供は泣くのを忘れて、おもちゃの卵をまじまじと見詰めている。
 空いている右手が卵を拾ったのを確認して、要はダメ押しに一言付け加えた。
「おにいちゃんはすぐにたまごおっことしちゃうから、祐くんがもっててくれる?」
「わかったー」
 子供が、自分の膝の上の卵に意識を集中させているのを確認して、傷口に勢い良く水を掛けた。
 水なので、当然沁みたりしない。
「お前、鮮やかだな」
 七海が感動した顔で要を見上げた。
 世にも珍しい場面だ。
「俺んち、小児科ですもん」
 要の父親は小児科医である。
 下町で小さな診療所を営んでいる。
 学生時代からしょっちゅう助手としてコキ使われていたので、子供の相手は慣れていた。
「どのくらい水かけるんですか?」
「基準としては最低でも2リットル以上。今はあるヤツ全部掛けていいよ」
 言われたとおり、要は買ってきた水を全部使って患部を洗い流した。
「オッケー。じゃあ、次、圧迫止血するから、さっきのビニール袋取って」
 要から袋を受け取ると、七海は一番大きな傷口をビニール越しに押さえた。
 傷口に直接触れない為に使うのである。
 これは、処置する側の感染予防だ。
 さらに、止血の確実性を高める為に、損傷部位に対応している止血点も押さえる。
 動脈損傷など多量の出血の場合、必要機材の無い屋外活動で完全に止血するのは難しい。
 だから、とにかく少しでも出血量を下げる方向で対応するしかない。
「祐くん、ちくちくとかぴりぴりとかしないかな?」
 精一杯優しい顔と声を作っている七海の顔が引き攣っている。
 要は笑い出しそうになるのを、力いっぱい堪えていた。
「しない」
 子供は一瞬考えた様子で、そう答えた。
「オッケー。とりあえず止血の妨げになる位置にガラスは残って無さそうだ。祐くん、もうすぐ救急車来るからね」
 救急車という一言に、目の色が変わった。
「ゆうくんがきゅうきゅうしゃにのるの?」
 既に傷の痛みはどこかへ吹き飛んだ様子だ。
 実は、鋭い切り傷はあまり痛まない。
 できればこのまま病院に着くまで忘れていて欲しいな、と要は思った。
「お母さん、今、うわっかのガラスは概ね洗い流しましたけど、中に入り込んでいる細かい破片があるかもしれません。救急では小さな破片を探し出したり、神経を傷つけているかどうかの検査を完璧には出来ないので、必ず専門医に掛かってちゃんと検査してもらってくださいね」
 救急診療を受診した後、もう一度専門医に掛かるようにいつも患者には指導しているが、実際にこれは守られない事が多い。
 救急で対応できるのは、あくまでその一瞬に表れている症状のみなのだ。
 例えば、心臓が止まっていれば動かす。
 しかし、その原因を根治させるのは救急医の範疇から外れている。
 それは、長期的な診療計画の下に、各専門医に委ねるしかない。
 救急と言う性質上、最後まで一つの疾病に対して向き合う事ができないのである。
(ちょっと、寂しいと言うか、物足りないと言うか…まぁ、仕方ないけど)
 要は小さく溜息を吐いた。
 入り口の方から、耳慣れたサイレンの音が聴こえ始めた。
「桜川救急隊です! …て、あれれ? 遠藤先生じゃないですか」
 入ってきたのは、これまた見慣れた救命士だった。
「ども。患者はこっちです」
 人垣の隙間を押し拡げながら、救命士の引いているストレッチャーを患者の傍へ導いた。
「あれれれれ、常盤木先生もご一緒ですか」
「や。僕もまさかこんなところでこんな見慣れたメンツが揃うとは思わなかったよ」
 七海が苦笑して肩を竦めた。
「もう天命ですね、常盤木先生は。患者さんは、こちらですね。圧迫止血、何分ですか?」
「今で5分弱だから、あと15分は欲しいかな」
「了解です。はーい、ぼくーちょっとカラダがふわっとするよー。1、2、3!」
 救命士はストレッチャーの足を低く畳み、素早く患者を乗せた。
「ERには僕から連絡入れとくよ。多分、うちだろ?」
「助かります! では、失礼します」
 患者と、その母親と、救急隊は慌しく博物館を去っていった。


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+++ 目次 +++ 

    本編
  1. 嘘の周波数
  2. Ancient times
    scene.1
    scene.2
    scene.3
    scene.4
    scene.5
    scene.6
    scene.7
    夏祭り SS
  3. 抗体反応
    After&sweet cakes SS
  4. 依存症 [連載中]
    番外編
  1. 真実の位相
  2. 二重螺旋
    企画短編
  1. 50000Hit記念
    Stalemate!? SS

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