scene.5 オン・スイッチ
悲鳴は、レセプションの付近から発せられたようだ。
何事かは分からなかったが、とにかく大急ぎで七海と二人、その方角へ急いだ。
近づいてみると、レセプションの横にある喫茶室の入り口付近に、黒山の人だかりが出来ていた。
「誰か、誰か助けて!」
人の環の中心から、甲高い女性の声が聞こえた。
それとともに、大音量で泣き喚く子供の声。
声の感じからすると、小学生くらいだろうか。
そして、その周辺から、どうやら博物館のスタッフらしき人たちが慌ただしく動いている気配が窺える。
七海が、その環の中から出てきた学芸員を一人、素早く掴まえた。
「何があったんですか?」
急いでいるのか、迷惑顔で学芸員が七海を睨んだ。
「子供がケガしたんですよ! 急いでるんで、失礼します」
そのまま取り付くしまもなく学芸員は七海の手を振りほどいて走り去った。
「遠藤」
「はい」
「ケガ人だってさ」
言うが早いか、七海が走り出した。
人混みを掻き分け、強引に人の環の中心部へ入り込んでいく。
「わ、わわ! ちょっと待って下さい!」
小柄な彼は、僅かな隙間を縫って入り込んでいく。
しかし、要の体格ではそうもいかない。
「待てないから、後から来い」
素気ない一言を残し、とうとう七海の姿は見えなくなった。
(ほんっとにスイッチ入るの早いよな)
彼のお医者さんスイッチは、戦隊モノのヒーローが変身するよりも速い。
ようやく要がこの騒ぎの中心に辿り着いた頃には、既に七海は該当の怪我人の横に膝をつき、問診の体制に入っていた。
「お、やっと来たか。今から言うから、記憶しろ。
患者は5才男児、ガラス製の花瓶を突き倒して転倒。
左上半身に多数の擦過傷、及び左上腕に創傷。ガラス片が傷口に入り込んでいる可能性が高い。そして、おそらく動脈を損傷している」
床には派手にガラスの破片が散らばっていた。
その中心に、七海と、子供と、おそらくその母親であろう女性がいた。
「動脈、ですか」
確かに、通常の創傷に比べて出血量が多い。
「とりあえず止血点を圧迫して出血量を減らすから、遠藤は今すぐ売店で水のペットボトル買って来い。最低6本な」
七海が要に財布を放り投げた。
「は、はいっ」
「あと、スタッフからバケツも借りて来いよ。借りれたら大きなタオルも」
「了解です!」
要がその場を立ち去ろうとした時、子供の隣に立っていた女性が、顔をくしゃくしゃにして要の腕を掴んだ。
「あ、あの…あなた方?」
処置に入った七海は、チームメンバーでも無駄に話しかけられない雰囲気になる。
七海には訊くに訊けなくて要に声を掛けたようだ。
白衣でも着ていればいざ知らず、私服の学生みたいな男にいきなり場を仕切られて、怖かったのだろう。
「ああ、心配しないで下さい。俺たち、近くの桜川病院に勤めている医師なんです。
今、息子さんについている先生は救急の専門医ですから、こういうの一番慣れてますので大丈夫ですよ」
要も七海の指示を早く実行せねばならず、焦ってはいたのだが、ここで医者が慌てては家族が余計に不安になる。
だから要は、なるべく落ち着いて、穏やかに答えるように努めた。
「お医者様だったんですか…」
安堵に胸を撫で下ろし、母親は要に一礼すると息子の隣に駆け戻っていった。
売店でミネラルウォーターのペットボトルを7本購入。
それ以上は売り切れで無かった。
その後、職員の詰め所に立ち寄り、事情を説明してバケツとタオルを借りる。
聞けば、既に博物館の方で救急要請しているらしい。
さきほど七海の手を降り解いた学芸員に、失礼を詫びられつつ、要は現場へ戻るべく、職員の詰所を後にした。