scene.5 平行線の消失点

 その後、重症患者が搬送されてくる事は無く、早朝勤務帯のスタッフに申し送りを済ませ、ごく平穏に当直は明けた。
(いよいよ…か)
 七海と話し合う。
 その為の夜が明けた。
「常盤木先生、行きましょう」
 内心の緊張を押し隠しながら、要は七海に声を掛けた。
「ああ、ちょっと待って。今行くから」
 彼は、慌てた様子でデスクの上の書類を片付けた。
「お待たせ」
 その後、二人でタイムカードを切って、肩を並べて医局を出た。
 そして、いつもの様に近くのコンビニに寄って朝食を仕入れ、七海の部屋へ向かう。
 その日に限って、七海は普段よりずっと饒舌だった。
 内容はごくつまらないものばかりだったが。
 どこのコンビニに何があるとか、夜中でも開いているスーパーがどこにある、とか。
 彼は、そんなさも無いことばかりを、部屋に戻るまでの短い道程、やたら喋り続けた。
 普段の彼らしくなく、どこか浮ついた様子だ。
 七海もまた、医局長に強くオフを言い渡された事で、何かおかしな様子であるくらいは気付いているのだろう。
 マンションのエレベーターや廊下で、これから登校する学生や、出勤するサラリーマン達とすれ違う。
 七海が病院勤めだという事は、同じ階の住民にはそれなりに知られているので、こんな時間に帰宅しても不審な目で見られる事はなかった。
 エレベーターから一番遠い、南端の部屋へ向かう。
(やべ…。ドキドキしてきた)
 噂では教授の持物だという、その部屋に足を踏み入れるのは何度目だろう。
 もしかしたら、今日が最後になるかもしれない。
 そう思うと、否応無く動悸が早まった。
「どうぞ」
 七海に促され、部屋の中へ入る。
 そこは、昨日要が出た時のままなのに、知らない部屋の様によそよそしい顔をしていた。
「コーヒーでもいれようか。それとも、せっかくオフだし、たまにはお酒でも飲む?   朝だけど」
 冷蔵庫を開けながら、七海が言った。
「とりあえずコーヒーで良いです」
「あ、そ?」
 要の応答に、七海は少しつまらなそうな顔をした。
 彼は意外と酒を飲むのが嫌いではない。
 むしろ、はっきりオフだと分かっている日には、好んで口にしている。
 リビングにぺたんと座り込んだ七海は、味気ない顔でコーヒーの入ったグラスを弄び始めた。  それきり彼は何を話すでもなく、ぼんやり窓の外を眺めている。
 緩慢とした空気が、静かな室内に滞っている。
 こういう時、全く無音の部屋というのは、正直しんどいものだ、と要は思った。
 まともなテーブルすらない部屋のど真ん中に、二人無言で朝食を広げた。
 いろんな意味で緊張続きの当直だった所為か、要はあまり食欲旺盛とは言えなかった。
 買い込んできた食物も半分以上残っている。
 七海もそれは同じだった様で、せっかく買った朝食にほとんど手をつけていない。
 手持ち無沙汰な様子で、コーヒーの入ったグラスを弄んでいる。
 七海が明らかに疲れているのが分かる。
 要は、話を切り出す事を躊躇っていた。
 正直なところ、わざわざ波風立てなくても良いじゃないか、という気持ちも膨らんできていた。
 七海が何も言わず、空いた時間をこうして一緒に過ごせるなら、それで充分じゃないか。
 何もかも暴いて失くしてしまうより、全てに目を瞑ってやり過ごす方が良いんじゃないか。
 そんな葛藤が、今更ながら決心を揺さぶっている。
「…あのね、研修医。昨日も言ったかもしれないけど、言いたい事があったら、言って良いんだよ、別に」
 沈黙を破ったのは、七海の方だった。
 昨日も彼は同じ事を言った。
 伝えたい事は、伝えなければ、伝わらない。
 このまま自分の気持ちに蓋をし続けても、ただギクシャクしていくだけなのかもしれない。
 彼が発したその一言で、やっと要は踏ん切りがついた。
「要、です。遠藤要です。まず、名前憶えて下さい」
 向き合って話す。
 今自分がその為にここにいる事を、要はもう一度自分に言い聞かせた。
「は…あ? 別に良いんじゃないの? 研修医で」
「研修医なんて、院内に何人いると思ってんですか。昨日職食で会った三方だって研修医です」
 七海は意外と理屈で押されると弱いという事が、最近何となく分かってきていた。
 だから、まず理詰めで押せそうなところは押してみる事にした。
「意外と理屈屋だな、お前」
 要の予測した通り、七海は反撃の糸口を見失った様だ。
「理屈屋になったんです。御陰様で」
 そう返すと、要は諦めた様に首を振った。
「…わかったよ。
 …遠藤…が言いたい事ってそんな事なのか? 名前がどうとかって。その事で、昨日あんなに動揺してたの?」
 少し呼びにくそうに名前を呼んで、その後、七海はすこぶる呆れた顔をしている。
「名前の事なんて、今更じゃないですか。それはついでのオマケです。いくら俺でも名前くらいであんなに動揺しませんよ。
 昨日、変な噂…聞いちゃったんです、俺。それで、ちょっと平常心が吹っ飛んじゃったんすよ」
 この話をする事で結末がどこへ転がるのか、てんで予想がつかなかったが、覚悟を決めて、要は話し始めた。
「変な噂って、昨日、食堂でお前の友達が言ってた黒がどうとかってヤツ?」
「それです。常盤木先生、あれ全部聞こえてました?」
「いや…ほとんど聞こえなかったけど。何か、黒がクロでどうってとこしか…」
「あれ、アンタの噂だったんですよ。総務から回ってきた、怪情報らしいです」
「僕の?」
 全く身に覚えが無い様子で七海が首を捻った。
「アンタが、渡辺教授の愛人だって話を聞かされてたんですよ。あの時
 それで…すみません、動揺しました。」
 それを言った時、要は心臓が破けそうな気持ちだった。
「………。
 ………………。
 …………………………。
 …………………………………は?」
 それを聞いた七海は、唖然とした顔で要の顔を凝視している。
「常盤木先生が、ERの渡辺教授の、愛人」
 声が小さかったのか、と思った要は、もう一度文節区切りに言い直した。
「……………………………………
 ……………………………………
 ……………………………………
 ……………………………………」
「わあぁっ! 冷たいです!! ちょっと、常盤木先生っ!」
 七海が無言のまま、要の頭にアイスコーヒーを掛けた。
「あ…、ごめん。あまりの事に、手が勝手に動いた」
 全然悪いと思ってない口調で謝られる。
「いきなり何するんですか!」
 手の甲で顔を拭いながら、要は七海に抗議した。
「反論の資格ナシ! えい、オマケだ!」
 追い討ちを掛ける様に、シャツの襟足を掴まれ、その中にグラスに残った氷を放り込まれた。
「やめてくださいよーっ! 反論なら口でして下さい!」
 要はシャツの裾を引っ張って、背中に入った氷を放り出した。
「バカじゃないのか!? なんでそんな話真に受けるかな! 大体…遠藤…がいるのに、何でそんな話になるんだよ」
 顔を上げてみると、七海は怒っているというより、傷付いている顔をしていた。
「常盤木先生…?」
 無意識に伸ばした要の手は、思い切り振り払われた。
「触るな! 僕の事、そういう風に思ってたんだな、お前は! お手当てもらって愛人しながら、片手間に遊んでるような人間に見えてたって事だよな!」
 七海が更に持っているグラスを振り上げたので、思わずその腕を掴んでしまった。
 そんなもので殴られたら、ただ事では済まない。
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ! 落ち着いて!」
 感情的な七海など今まで見た事が無かったので、要は面食らっていた。
「………っ」
 七海は腕をつかまれた格好のまま、要の顔を口惜しそうに睨み上げた。
「常盤木先生がどういう人か疑ったんじゃなくて、まだ続きがあるんですってば!
 とりあえず最後まで話を聞いてください!」
「……」
 要の言葉に、数秒黙した七海が、やっと振り上げた腕から力を抜いた。
「……分かった。最後まで聞いてやる。
 それで更に下らない事言いやがったら、その格好のまま部屋から放り出すからな」
 そう脅しを掛ける七海は、気のせいか、少し涙声になっていた様だ。
「わかりました。その時は甘んじてコーヒーを被ったまま帰ります。
 その噂には実は裏付けみたいなものも付いていたんです。
 まず、常盤木先生と教授が二人でよく出かけてるところを見かけるって話。まぁ、こんなのは無い話じゃなし、ああそうなんだ、ってなもんなんですけど…。
 もう一つ。この部屋の名義が渡辺教授だっていう噂が立っているんですよ。まぁ、それごとガセだったって事でしょうけど、家の名義がどうとかなんてところまで囁かれる辺りが、妙に本当っぽく聞こえるでしょ? 噂の出所が総務っていうのもね」
 要が昨日聞いた話はこれで全部だ。
 聞き終わった後、七海は黙りこくってしまった
 その反応は妙に静かで、却って不気味だった。

 果たして  今の話で、七海は先ほどの疑惑の理由を納得してくれたのだろうか。


前頁ヘ戻ル before /  next 次頁へ進ム

+++ 目 次 +++

PAGE TOP▲

+++ 目次 +++ 

    本編
  1. 嘘の周波数
    scene.1
    scene.2
    scene.3
    scene.4
    scene.5-1
    scene.5-2
    scene.5-3
    scene.6
  2. Ancient times
    夏祭り SS
  3. 抗体反応
    After&sweet cakes SS
  4. 依存症 [連載中]
    番外編
  1. 真実の位相
  2. 二重螺旋
    企画短編
  1. 50000Hit記念
    Stalemate!? SS

拍手してみる。