スタッフとME機器類が全てスタンバイを終えた頃、ストレッチャーに乗せられた患者がERに運び込まれてきた。
辛うじて心停止してはいなかったものの、全身の外的所見、異常な血圧の低下などから見て、多発外傷によるショックを起こしているのは間違いなかった。
外傷患者の場合、出血源を正確にマッピングする為に、まず衣服を全て取り払わなければならない。
要は、患者の肌に引っ掛けない様に注意を払いながら、衣服を鋏で切っていく。
(それにしてもひどいな…。ケンカというより、リンチみたいな感じだ)
露出した肌には、くまなく殴打の跡が見られた。
鬱血は多いが、実際に流出している血液量は思ったより少ない。
(でも…、出血量が少ないのに血圧が低下し続けているというのは?)
内臓から出血しているか、あるいは心機能そのものが低下しているか、出血性ショックよりも、より重篤な状態が予想された。
「モニタと除細動器連携させてね。それから、研修医は気道確保して、挿管」
七海の指示は、ほとんど主語が抜けている。
それぞれの役割分担がはっきりしているので、必要無いのだ。
だから、日によって役割が変わる要に指示する時だけ、頭に"研修医"と付ける。
オペ看の田島が、心電図や血中酸素量を測る装置など、モニタ機器類を患者に装着する。
「血圧下がり続けてる、それにかなりの徐脈だ。七海ちゃん、油断すっとすぐに止まるよ、これ」
麻酔医の小沢が、心電図モニタを見ながら言った。
要がショック症状の患者に遭遇するのは、研修が始まってから初めてだ。
致死率の高い症状だけに、緊張で要は手が強張るのを感じた。
「 研修医、さっさとしないと心臓止まるよ」
七海が、要に与えた指示の実行を促した。
その声は、外来患者に対するのと変わらない冷静さで、要の緊張が少し和らいだ。
(落ち着こう…)
要は、気を取り直して気道確保に取り掛かった。
患者の頭を掴み、気道が直線になる様に顎を引き上げる。
(気道確保は、まずクロスフィンガー法で…開口)
手術用手袋を装着した状態で、人差し指と中指で患者の口をこじ開け、口腔内に器具を挿れるだけのスペースを作る。
その瞬間、患者の身体が痙攣し始め、要は思い切り指に噛み付かれた。
「 !!!」
噛み付かれた指に、激痛が走る。
相手は意識不明。
力加減も何も無い。
それに気付いた看護師の田島が声を上げた。
「先生、患者が痙攣です!」
田島の言葉に、七海が言った。
「痙攣じゃない、それは心室細動だ!」
その時、七海は計器の数値を確認した訳ではなかった。
経験からくるカンで、反射的にそう判断していた。
「波形fineVF…、間違いなく心室細動だな。どうする? "動"って字は入ってるけど、こりゃリッパな心停止だ」
七海より僅か遅れて、心電図のモニタリングをしていた小沢が言った。
(心室細動…三分以内に蘇生しないと、患者は死ぬ…!!)
要の頭から、指を噛まれている痛みが一瞬消し飛んだ。
「研修医、何とか指抜けないか?」
冷静に努めているが、問い掛ける七海の額にも汗が滲んでいる。
「このままじゃ、無理…ですね。どうも間接の隙間の軟骨に歯が食い込んでるみたいで…何とか、開口させないと」
空いている手で患者の口をこじ開けようと試みるが、まるで効果が無かった。
他の者が手伝おうにも、歯の隙間が小さく、新たに指を差し入れる事が出来ない。
「しょうがない…。除細動最優先、VF狩るよ。小沢先生、除細動器充填200から」
七海が除細動器の発動を促した。
ここから先は一秒を争う領域だ。
「遠藤ちゃんの指抜かないと、このままDCショックかけちゃったら、殺しちゃうよ?」
しかし、未だ噛み付かれたままの要の指を見て、小沢が言った。
このまま除細動器を発動させたら、要の身体にも電流が流れる。
「分かってる! 何とか、する。曲ブレード」
彼は看護師へ視線を向け、気道確保時に使うブレードという器具を取り出させた。
「七海ちゃん、充填完了だ。さぁ、どうするよ?」
平静を装いながらも、小沢の声が微かに掠れている。
「小沢先生、除細動掛けてください! もう一分が経過してます。これ以上時間掛けたら、蘇生に成功しても障害が残るかもしれない…!」
気付けば、要はそんな言葉を口走っていた。
「バカっ! 除細動器が何するものかわかってるのか!?
これは心臓動かす機械じゃないんだぞ! 不規則な脈をリセットする為に、一回心臓を止める為のものなんだ!
未熟者は黙ってろ! 何とか…何とかするから!!」
珍しく声を荒げる七海の額に、汗が浮かんでいた。
普段、決して現場で声を荒げた事の無い七海の剣幕に、他のスタッフも驚いた顔で七海を見ている。
「でも…、間に合わなくなります!」
要の言葉に応えず、七海は看護師に胸骨圧迫の指示を出した。
1分30秒経過。
(このままじゃ)
患者は、死なせられない。
かと言って、救命活動中にスタッフを死なせたと言う事になれば、現場責任者の七海が責任を問われるだろう。
除細動も出来ず、要の手が邪魔をして人工呼吸も始められない。
完全な心停止に陥るまで、もう僅かの時間しか残されていなかった。
「…一つ、方法が無い訳ではないんだ。お前の人差し指と中指の隙間にだけ、厚み約一センチ弱の隙間がある。
ただし、手の甲の方からしかブレードを差し入れられないから、骨が折れるかもしれない。指の神経も無事じゃないかもしれない。
万が一の後遺症が残れば、お前は少なくとも執刀医にはなれない。それでもいいか?」
外科医を目指している要には、死亡宣告とそう変わらない質問だった。
しかし、迷う時間は無い。
もうすぐ2分。
ギリギリだ。
麻酔医が押し黙ったまま、除細動器の前で待機している。
(これ以上時間を掛けたら、蘇生に成功しても脳に障害が残る)
迷う時間は、もう残っていなかった。
「はい。指の1本や2本、くれてやりますよ」
要はその時、ほとんど無意識に頷いていた。
「いい覚悟だ、研修医。心配しなくても、本当に後遺症が残ったら、僕が一生面倒看てやるから安心しろよ」
そう言って、七海は患者の前歯にブレードの先を引っ掛け、L字になっている曲部を要の手の甲に当てた。
「いくよ!」
手の甲を支点に、ブレードを梃子替わりにして患者の口をこじ開けた。
(痛て…っ!)
想像以上の負荷に、骨が軋む。
要は固く目を瞑って、倍増しになった痛みを堪えた。
「我慢しろよ。隙間が出来たら、すかさず指を抜くんだ」
七海の、ブレードの込める力が更に強くなった。
(……!!!)
瞬間、僅かな隙間が出来た。
要はすかさず指を抜く。
「OKです!」
背後に立っている七海を振り返る。
「CPR、休止!」
要の指が患者から離れた事を確認して、七海が指示を出した。
胸骨圧迫など、手技による心肺蘇生術 CPRを行っていた看護師が、患者から離れる。
「カウンター行くよ! スタッフ…酸素、全部離れてるな!?」
七海が除細動器の電極パッドを小沢から受け取り、患者の胸に押し当てた。
電流の爆ぜる音と共に、患者の身体が跳ね上がる。
「跳ねたか!?」
モニタはまだ、心拍が正常に戻っていない事を示していた。
「ダメか……。研修医、もう一度気道にチューブ挿管して、人工呼吸開始。その後速やかにCPR再開。
2分続けて波形が変わらなければ、もう一度除細動掛けるよ。小沢先生、一気に行きます。充填、300!」
「リョーカイ」
小沢が除細動器の操作をしている姿を横目に見ながら、要は人工呼吸器に繋ぐ為に挿管を始めた。
今度は、差し入れる指の横にブレードを添えた。
これなら同じ事が起こってもブレードで防ぐ事が出来る。
無事挿管し、酸素吸入を開始。
そして、胸骨圧迫を再開した。
モニタの示す心電図の波形に注意を払いながら、CPRを続ける。
誰も言葉を発する事無く、ER内は張り詰めた沈黙に支配された。
「 2分!」
七海の声が響く。
要は、素早く患者の身体から飛び降りた。
再び電流が流れ、患者の身体が跳ね上がる。
「今度こそ跳ねた?!」
跳ねて欲しいのは、心電図の方だ。
その場にいた全員が、祈る様な気持ちでモニタを見つめた。
「跳ねた…! 蘇生成功だ」
小沢の声に、七海が心底安堵した顔で大きく息を吐いた。
心電図は確かに洞調律を示している。
何とか、心肺蘇生に成功したようだ。