scene.3 医局長

 すっきりしない気分のまま、要は医局に辿り着いた。
 まだ他の診療科目で夕方の外来を受け入れているこの時間、ERは比較的平和だ。
「おはようございます」
 ドアを開けると、目の前の長椅子で医局長が寝転がって本を読んでいた。
「お、遠藤か。ずいぶん早いな」
 彼は要の顔を一瞥し、それだけ言うと再び読みかけの本に目線を戻した。
「ちょっと早く家を出過ぎまして…」
「じゃあ、夜勤帯まで仮眠でもしてるんだな。休める時に休まないと持たないぞ」
 医局長もまた、先刻の七海と同じ事を言った。
 いつスクランブルが掛かるか分からない  あるいはスクランブルが掛かりっぱなしになるかもしれない、それがERだ。
「はい。じゃ、仮眠室借ります」
 仮眠室といっても、医局の一部をアコーディオンカーテンで仕切っているだけの、ごく簡易なスペースだ。
 その小さな空間に、古いストレッチャーに毛布が一枚という、簡素な寝床が用意されている。
 本当は救急科当直室というものが別に用意されているのだが、緊急時の移動が億劫で、医局内のこの小さなスペースを使っている者が多い。
 ごろんと寝転がり、目を閉じてみたが神経がぴりぴりして到底眠れそうな気配では無かった。
 今考えているのは、七海の事ばかりだ。
 要自身と七海の関係。
 三方から先刻聞かされた"黒い噂"。
 頭の中が混乱している。
(噂が本当なら、俺は暇潰しに付き合わされているだけ、か?)
 虚しい疑念に捉われる。
(いや、そもそも常盤木先生に潰す様な暇なんかないじゃないか)
 そもそも、七海は滅多にマンションには帰っていない。
 最近では、要が泊まる日以外は本当に医局に住み着いている。
(あー、くそ! ますます混乱してきた)
 要は、勢い良く寝返りを打ち、ストレッチャーから落ちそうになった。
 何とも居た堪れない気分だった。
「おいこら、遠藤。何を仮眠室で暴れてるんだ? 壊すなよ、仮眠室。ショボイ造りなんだからな」
 要が落ち着き無くごそごそしていると、医局長から声を掛けられた。
「すみません、何か寝付き悪いんすよ、今日」
 カーテン越しに、要は医局長の言葉に答えた。
「何だ、寝付けないのか。何だったら添い寝でもしてやろうか?」
 要の声に、仕切りの向うから揶揄する様な言葉が返ってきた。
 医局長は人を揶揄うのが趣味なのだ。
「いえ、結構です」
 ここはきっぱりお断りしておかねば、嫌がらせをある種ライフワークにしている医局長に、本当に添い寝されかねない。
 そもそも、今の要には彼の趣味に付き合う余裕も無かった。
 何とか、勤務時間までに気持ちの整理をつけねばならないのだ。
「何だ、遠藤  悩み事か?」
 さっきまでの揶揄い口調とは打って変わった、真面目な声で医局長が言った。
「え? いや…悩み事ってほどでも」
 気に掛けてくれるのは有り難い話だが、とても職場の上司に相談出来る内容ではない。
 七海の為にも、医局長にはバレないようにしなければ。
「常盤木にイジメられたか?」
 医局長が当たらずとも遠からずの辺りを突いてきたので、要は本当にストレッチャーから落ちそうになった。
(超能力者か、この人は! 何で常盤木先生の事で悩んでるって分かるんだ!?)
 確かに、医局長は大変勘の良い人物だが、それにしても、こうもあっさりピンポイントで個人名を示してくるとは思わなかった。
「いや…イジメられてはないですよ」
 内心動揺しつつも、平静を装って答える。
(ある意味、単純に憎めない分イジメられるよりタチの悪い状態に陥ってるけどな)
 胸中でぼやきつつ、医局長にはあまり深く勘繰られないように、要は返す言葉を注意深く選ぶ。
「じゃあ何を考え込んでんだ、お前は。すっきりしてから勤務に臨まんと、とんでもないミスするぞ」
 いつに無く、医局長の口調は真面目だった。
(そんなにドハマリしてる様に見えるのかな、俺)
 普段の態度が悪ふざけの塊の様な人物に、真面目に心配された要は、却って不安を憶えた。
 しかし正直を言えば、本当は七海と教授の関係について訊きたい。
 噂が本当だとしたら、立場的にちょうど二人の間に入っている医局長ならば、きっと知っているはずだ。
 しかし、とてもではないがそんな事は訊けない。
(でも、こりゃ何か"白状"しないと終わらせてくれなさそうだよな…)
 そう思った要は、当たり障りの無さそうな別の疑問について訊ねる事にした。
「…いや、大したこっちゃないっすよ。ちょっと、何でかなーって思ってる程度なんですけど」
「まぁ良いから言ってみろ」
「常盤木先生って、研修医の名前を憶えないのは何か理由があるんですかね?」
 これも、ずっと気になってる事だ。
 ついさっきにも訊ねて、はぐらかされたばかりだった。  医局長なら、何か理由を知っているだろうか。
「何だ、そんな事か。遠藤はそれが不満なのか?」
 医局長が面白そうに口の端を上げた。
「不満…つか、疑問です」
「疑問、ねぇ。まぁ、何だな。俺も憶えなくて良いなら、憶えないがね」
 あっさりとした声が、カーテンの向こうから返ってくる。
「え?」
「遠藤、何か腹に溜まってるんなら、出てこいや。急患が入らなきゃ聞いてやる」
 医局長に促されて要が仕切りから出てみると、彼は起き上がって座っていた。
 彼は、いつになく真面目な顔をしている。
「まぁ、お前ももう三ヶ月もERにいりゃ、感じてるだろうが  根本的にERは他の科と体質が違うんだわ。 僅か一瞬の判断の遅れが直接死を招く。俺たちは、常に複数の診療科目に渡る診断を瞬時に行わなければならない訳だ。 それは肉体的にも精神的にもかなりハードだってのは、分かるよな?」
 要の疑問に対して医局長は、何故かERという部署の性質について話し始めた。
「あ、はい。それは実感してますけど」
 とりあえず返事はしたものの、何故そんな話になるのか不思議に思った。
「今の研修制度が始まって以来、ほとんどの研修医はERにゃ帰って来ないのさ。うちに限って言えば、ゼロと言って良い」
 少し前から研修医制度が大幅に変更され、大学を卒業した研修医は必ずERの研修を受けなければならないと言う制度が出来た。
 医局長が言っているのはその事らしい。
「そう…なんすか」
 確かに、ERはそれまでの診療科目に比べて格段に激務だ。
 心身ともに激しい消耗を強いられる。
「激務の割に出世とは無縁の、生涯一現場って感じだからな、ERは。第一ここにいる以上、いつまで経っても所詮勤務医、大して稼げない。 そうなってくると、どいつもこいつもERではミス無く無難に研修が終わるのを待つばかりになっちまう。 結局、飾るにも邪魔っけなデクノボウが出来上がるって寸法だ。そんな理由でな、ERのスタッフは、基本的に研修医にゃ何も期待してないのさ。 特に、常盤木はな」
 医局長の言葉に、要は返す言葉が見つけられなかった。
 先ほど、三方も似た様な事を言っていたからだ。
 ERは貧乏クジだ、と。
「まぁ、常盤木は少し態度が極端だがな。これまでにアイツが名前を憶えた研修医は過去に一人だけだ。だから、お前も気にするな」
 医局長は溜息混じりに笑った。
(そうか。全員等しく名前を憶えない訳でも、無いんだな…)
 七海のそれは今に始まった事ではない、と医局長は慰めのつもりで教えてくれたのだろうが、むしろ彼が名前を憶えた研修医が一人はいる、という事の方が要の興味を引いた。
「その人、今は? ERにはいませんよね?」
 要より先輩で、常盤木より後輩に当たる医師は、ERにはいない。
「残念ながら、ERには来てくれなかったな。まぁ、専門分野が違うといやぁそれまでなんだが。 そいつは精神科救急が専門なんだ。今はここの付属高校でスクールカウンセラー兼保健医やってるよ。 うちはどちらかというと循環器や外科系の救急だからな。まぁでも、時々うちにもヘルプで入ってもらってるから、そのうち顔合わすんじゃないか?」
 思いの外要が食い下がったので、医局長は意外そうな顔をしている。
(常盤木先生が、唯一認めた研修医…か)
 会った事もない人物に、妙なライバル意識が湧いてしまっている自分に、要は心の中で苦笑した。
 それにしても、全く気付かなかった。
 研修医というものが、ここではそこまで絶望されている存在だとは。
 これは、仕事も恋愛も相当ハードルが高い。


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+++ 目次 +++ 

    本編
  1. 嘘の周波数
    scene.1
    scene.2
    scene.3-1
    scene.3-2
    scene.4
    scene.5
    scene.6
  2. Ancient times
    夏祭り SS
  3. 抗体反応
    After&sweet cakes SS
  4. 依存症 [連載中]
    番外編
  1. 真実の位相
  2. 二重螺旋
    企画短編
  1. 50000Hit記念
    Stalemate!? SS

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