その時だった。
ふと二人の頭上に人影が差した。
「黒い噂って何なのかな?」
聞き覚えのある声に、要が顔を上げると、三方の背後に七海が立っていた。
「うわっ! 常盤木先生、いらしたんですかっ」
いきなり噂のご当人が登場した為、三方が面白いくらい狼狽した。
「はいはい、どうも。僕も同席させてもらって良いかい?」
質問形でありながら、七海は既に三方の隣に腰を下ろしている。
「あああ、あの、俺そろそろ休憩終わるから、行くわ! 常盤木先生お先に失礼しますっ!」
三方はそそくさと席を立ち、慌しく去っていった。
「慌しいお友達だね? 研修医」
三方が立ち去った後の座席に、七海が移動した。
コーヒーを載せたトレイも、一緒にスライドした。
顔は一応笑っているが
(う…。怒ってるな、これは)
七海は、怒りが大きいほど顔が笑うタイプだった。
「あの…」
要は恐る恐る七海の顔を覗き見る。
先刻の三方との会話を、一体どの辺りから聞いていたのだろう。
「研修医、お前、僕がさっき言った事ちゃんと聞いてたのか?」
七海の冷たい声が、冷水の様に頭上から降ってくる。
(おや…?)
しかし、その冷ややかさの原因は、要が今怖れているものとは別件だった。
「確かに、遅刻するなって言ったけど、同時にしっかり休めって言わなかったかな、僕は」
「あ…はい」
彼が怒っているのは、要が休息をきちんと取らずに早々と出勤してきた事に対してだった。
叱られつつも、正直要はほっと胸を撫で下ろした。
つい今しがた、三方の口から洩れてきた噂話は七海には聞こえていなかった様だ。
(助かった)
その要の心中など知る訳も無く、七海はお説教体制に入っている。
「何でこんな時間に職員食堂でコーヒーなんか飲んでるんだ?
しかも、すっきりなお目覚めで元気が有り余ってるなら良いけど、くたびれ果てた顔してるじゃないか」
七海が要を睨み付けた。
(助かったのは助かったけど…ううう、針の筵だ)
「すみません」
とにかく、素直に頭を下げた。
「全く…。教授の耳に入ったら心象悪いよ? あの人、能率が下がるの一番嫌いだから」
七海が肩を竦めて溜息を吐いた。
その一言が、要の胸にさっくり刺さった。
七海は、業務に差し障る要の行動諌めているだけで、その内容は別に七海個人の主義ではなく、ER全体の方針だった。
つまりは、統括している教授の方針なのだから、七海が教授の話題を引き合いに出したとしても、それほど不自然でもない。
医師にとって、自分の所属している医局を統括している教授の心象は将来を左右する。
だからこそ七海はそこを指摘したのだろう。
要も、理性では理解出来た。
しかし今は、三方から聞き捨てなら無い噂話を聞かされたばかりで、少々感情的になっていた。
(何も、今ここで教授を引き合いに出さなくてもいいじゃないか!)
本当は、噂の真相をこの場ですぐにでも問い質したい。
そんな衝動に突き動かされそうになる。
しかしまさか、こんな衆人環視の中の、しかも職場でそんな話は出来なかった。
あくまで公私は別だ。
(プライベートは持ち込まない…プライベートは持ち込まない…)
呪文の様に頭の中で繰り返す。
今、自分の目の前に座っているのは、あくまで上司。
要は、喉の奥に引っ掛かった言葉を飲み込んだ。
(くそ…っ)
気持ちを落ち着けようと、コーヒーを口に含む。
ミルクも砂糖も入っていない黒い液体が口の中を滑り落ちていった。
(第一、この人と俺は別に付き合ってる訳じゃないんだよな…。そもそも、俺が腹を立てること自体がおかしいのか)
コーヒーと一緒に、衝動的な感情も腹の底に滑り落ちた様だ。
一呼吸置くと、少しだけ感情の整理が出来ていた。
整理してみると、そこには落ち込みだけが残っている。
根本的な問題。
七海にとって自分が何なのか、と言う事。
「何だ。…今にも噛み付いてきそうな顔してたくせに、結局何も言わないのか」
急に押し黙った要を、七海が拍子抜けした様な顔で見た。
「…噛み付きそうな顔、してましたか? 俺」
どうやら、口に出すのは堪えたものの、顔にはしっかり出ていた様だ。
「まあね。別に言い返したって構わないのに」
つまらなそうに七海が言った。
その余裕な態度が余計に要の癇に触った。
「いえ…常盤木先生が正しいですから。研修医ですからね、俺。指導医に従って当たり前です」
感情的に公私の区別が付けきれていない、自分が悪い。
この期に及んで、皮肉など言ってしまう自分が悪い。
要は、自分自身の発した言葉にますます落ち込んだ。
「まぁ…そう思うなら医局の仮眠室で構わないから休んどけよ。
眠れなくても、横になるだけでも少しは身体は休まるからな。今夜も徹夜になったら到底持たないぞ」
それはその通りなのだ。
昨夜も、居酒屋の階段から転落した青年の予後観察の為、ほとんど仮眠出来ない当直だった。しかし
(それはアンタも一緒でしょうが…)
叱咤の内容にはご最もと思いつつも、そう思わずにはいられない要であった。
「まぁ、僕みたいにオンオフがちゃんと切り替えられるようになれば、問題無いけど。勿論、身心両面で、だ」
心の中を読まれた様な突っ込みを入れられ、要は心臓が口から飛び出しそうになった。
七海は、要が発した嫌味や皮肉に気付いていた。
その上で、それを受け流している。
「正直な反応だな、研修医」
七海がおかしそうに笑った。
(ううう。何か、すげぇ子供扱いされてないか、俺。 考えないようにしてたけど、やっぱり遊ばれてんのかな…)
嫌な想像が、頭の中で膨らんだ。
七海の気持ちを質したくても出来なかった、一番の理由だ。
もし、七海に全くその気が無かったとしたら、重く思われるに違いない。
重いと思ったら、彼はきっとこの関係をすっぱり切るだろう。
だから、訊けない。
「僕はこれから教授に用があるから医局には戻らないけど、お前はちゃんと医局で仮眠してるように。
今ならまだ医局長がいるから、仮眠中の研修医まで叩き起こされる様な末期的な事態は、そう起こらないと思うよ」
そんな要の本音を、七海は知っているのだろうか。
そう言って、七海は立ち上がった。
「教授に、用事ですか?」
その時、一体どんな顔をしていたのだろう。
問われた七海が困惑した顔をした。
「医局長から教授に、今度の学会で使う資料を言伝てられたから持って行くだけだけど。
僕は今本来は勤務時間じゃないから、手が空いてるし…。それがどうかしたのか?」
「あ…いや、何でもないです」
(なんだ、医局長の用事か…)
「…? おかしなヤツだな」
首を傾げながら、七海は職員食堂を立ち去った。
彼が出て行った扉を、要は暫くの間、途方に暮れた気持ちで見つめていた。
(こうしててもしょうがない…素直に医局で仮眠するか)
溜息が一つ零れる。
"黒い噂"の真偽のほどは分からない。
要もまた職員食堂を後にした。