scene.2 黒い噂

 当直に入る時刻まで、後3時間半。
 何となく病院まで来てしまったが、要はERを避けて職員食堂へ向かった。
 身体を休めるべき時間にふらふらと無駄に出歩いている事が知れたら、確実に七海の雷が落ちる。
"疲労の為にミスしました、は通らないからな"
 3ヶ月前、要が入局初日に言われたのは、まずその一言だった。
"休める時に休め。休息時間は自分のものじゃない。患者の為の準備時間だ"
 それは別に七海だけの信条という訳ではなく、ER全体の風潮でもあった。
 もう夕方に近い時刻、職員食堂は、人もまばらで気怠い空気が流れていた。
「お、遠藤じゃん。同じ病院内にいるのに、滅多に会わないよな」
 食堂でぼんやりコーヒーを飲んでいると、突然背後から声を掛けられた。
 振り返ると、大学の同期で要と同じく研修医の三方がトレイを片手に立っていた。
「三方か。マジで久しぶりだな」
「向かい、いいか?」
「ああ、座れよ」
 三方は、どうやら今から遅めの昼食の様だ。
「遠藤がERに移ってから、全然会わねぇよなー」
「そうだなぁ。夜勤多いからな、あそこ。  三方は今内科だっけ?」
「そうそう。で、内科が終わったら次小児科ね。お前、ERんなってからマジ当直ばっかだもんなー。まぁ、七海ちゃんに当たったらしょうがないか」
(七海『ちゃん』!?)
 見た目には柔和だし、実年齢より若く見えるし、どちらかというと細身で頼りなく見えるが、『ちゃん』は無いだろう、と要は同僚に抗議した。
「あ、ごめんごめん。今は遠藤の上司だよな。うちのナースがさ、そう呼んでんのよ。常盤木先生のこと」
「ナースが?」
「ホラ、パッと見カワイイっしょ、なな……常盤木先生。んで、ERじゃエースだろ? 医者も上の方になるともージジイしかいないから。若手有望成長株ってヤツ?」
 ニヤニヤ笑いながら、三方が言った。
「はああ」
 意外だった。
(内科のナースに人気があるとは、知らなかった)
 何故なら、ほとんど医局に住んでるくらい家に帰らない七海は、ERの看護師の間で"最も彼氏として不適格な男"の称号を欲しいままにしていたからだ。
 信頼できる医師と、人生のパートナーは、彼女らの間では一致しないらしい。
「常盤木先生、指導医の中ではダントツ厳しくて有名だからなー。当直も多いし、時間外も多いし、まぁ、そもそもER自体貧乏クジだよな」
 三方の言葉に、要は少々腹が立った。
 七海が厳しいのは、患者に対する責任感が強いからだ。
 医療の現場で、単純ミスは文字通り命取りだという事を正しく認識しているからだ。
 要がその事について反論するより先に、三方は更に言葉を付け足した。
「それに常盤木先生てさ、研修医を人間だと思ってないとこあるっしょ。他のヤツに聞いたことあんぜ? あの人研修医の名前憶えないんだろ?」
「それは、まあ…確かに」
 七海が研修医の名前を憶えないのは本当だ。
 現に、要も未だ『研修医』と呼ばれ続けている。
 しかしそれは、三方の言う様な差別意識とは別だと、要は思う。
「だろだろ!? それに、デカイ声で言えねぇけど、常盤木先生って黒い噂あんだぜ? 遠藤、聞いたことねぇ?」
 要に顔を近付け、周囲の様子を伺いながら三方が言った。
「…黒い噂?」
 要には全く心当たりが無かった。
 信憑性の有る無しに関わらず、噂というものは看護師の口からそれとなく入ってくるものなのだが、"黒い"と言われるほどの噂を、ER内ではまだ聞いた事が無かった。
「何だ、聞いたことねぇの。ふーん」
 三方は、つまらなそうに鼻を鳴らした。
「何なんだ、その"黒い噂"って」
 要が問い返すと、三方は大仰に一つ咳払いをした。
「誰にも言うなよ?」
 眉と声を潜めて、要の耳に口を寄せて三方が言った。
(そう言いながら、コイツあちこちで言いふらしてそうな気がするな…)
 そんな事を思わないでもなかったが、とにかく内容を聞き出すまでは気分を損ねないようにと、要は敢えて何も突っ込まなかった。
「常盤木先生のことなんだけどさ、あの人、ERの渡辺教授の"愛人"って噂があんだよな」
 思いも寄らない内容に、要は手元のコーヒーカップを取り落としそうになった。
「はあ!?」
「わっ! ばか!! 声デカイ!!」
「まごもにもごもが…っ!」
 声の大きさに驚いた三方が、要の口を両手で押さえた。
「…どういうことだよ、それ!」
 声を潜めて、要は改めて三方を問い詰めた。
「二人がよく親しげに食事に行ったりしてる所とか見かけるらしいんだよな」
「直属なんだし、メシくらい行くだろ!」
「行かねぇだろ、フツー。教授クラスの人間が、たかだか常勤医と二人っきりでなんてよ。それも一回や二回ならともかく、しょっちゅうは行かねぇって」
 それはそうだが。
「それだけか?」
「あん? 何が?」
「食事だけか? 目撃情報は」
「もちろん、それだけじゃねぇ。常盤木先生のマンション、実は渡辺教授の持物らしいって噂もあんだよな。何か、それが本当なら決定的って感じすんじゃんか」
 したり顔で三方が言い切った。
(あの部屋が、教授の持物?)
 要が昨日も泊まった、七海の部屋。
 それが、まさか。
 しかし、考えてみれば合点のいく部分があるのは否めない。
 この辺りは、都内では高級住宅地に入っている。
 たかだか一勤務医が、独身とはいえあんな高級分譲マンションの高層階など、そうそう買えるだろうか。
 もし、それが教授から与えられた部屋だというなら、その疑問も解消する。
 しかし、そんな部屋に平然と自分を泊めているのだとしたら、とんでもない事ではないか。
 要と教授と、二重の裏切り行為だ。
「まぁ、所詮噂だけどな。だから、常盤木先生の下に入ってる遠藤なら、何か知ってんじゃないかと思って聞いてみた訳よ」
 要の内心の動揺には気付かないまま、三方が肩を竦めた。
「三方、お前こそこれ以上人に言うなよ!?」
「いででで、苦しいって! 手ぇ離せ!」
 気付くと、要は三方の胸倉を掴み上げていた。
「すまん、つい」
 これでは、まるで八つ当たりだ。
 三方に、無責任な好奇心は有っても、悪気は無い。
「"つい"じゃねぇ! おまえイキオイで俺を殺す気か! …まぁ、この噂に関しちゃ、俺の口を塞いだくらいじゃ今更とまんねぇよ。 何せ総務の女子連中が中心になって騒ぎ立ててやがんだから」
 三方が溜息を吐いた。
 総務から内科にまで伝わるくらい、広まっている噂らしい。
「それだけ狼狽するとこみると、やっぱ何か心当たりあんのかよ?」
 疑わしげに、三方が要の顔を覗き込んだ。
「いや、全然…全くの初耳だ」
 教授の事はな、と要は心の中で付け足した。
 狼狽したのは、自分自身が七海と全くの無関係ではなかったからだ。
 しかし、それを勘繰られるのは困る。
「まぁ、"黒い噂"がホントに"クロ"でも、遠藤の口からは言えんわな」
 しかし、意外にもすんなり三方は追求の手を引っ込めた。
 その分、却って妙な確信を抱いてしまった様だ。


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+++ 目 次 +++

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+++ 目次 +++ 

    本編
  1. 嘘の周波数
    scene.1
    scene.2-1
    scene.2-2
    scene.3
    scene.4
    scene.5
    scene.6
  2. Ancient times
    夏祭り SS
  3. 抗体反応
    After&sweet cakes SS
  4. 依存症 [連載中]
    番外編
  1. 真実の位相
  2. 二重螺旋
    企画短編
  1. 50000Hit記念
    Stalemate!? SS

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