scene.1 オンコール
午後3時を少し回った頃だった。
遠藤要の耳許で、甲高い電子音が鳴り響く。
それは、急を告げるポケベルの呼び出し音だった。
ただし、それは要を呼び出す為のものではない。
「…急患っすか?」
要は、疲労の為に酷く重い頭を無理矢理持ち上げた。
少しでも気を抜くと、再び枕に吸い込まれそうな眠気だ。
「 まだ寝てて良いよ」
素早く起き上がったその相手は、要の様子を見て小さく笑った。
「いや、でも」
彼が呼び出されたとあらば、要も起きない訳にはいかない。
「今は良いから。それより、今晩の当直までにしっかり休んでおくこと。遅刻するんじゃないよ、研修医」
俯せの姿勢で頭だけ持ち上げていた要の頭が、思い切り枕に押し付けられた。
「へんひゅーいっへほばないへくらはいお」
枕に顔を埋められたまま、要は抗議した。
「何言ってるのか全然わからないんだけど」
頭の上から、呆れ返った声が降ってくる。
要は、後頭部を抑え込む手を振り払って再度抗議した。
「アンタが頭おさえてるからでしょうが! 研修医って呼ばないでくださいって言ったんですよ」
「だって、研修医だろ。今年やっと2年目の前期研修医」
そう言う間にも、彼は要から離れ、手早く身支度を整えていた。
「そうじゃなくて、いい加減名前憶えて下さいって話してんです」
要の抗議の内容に、彼は数秒沈黙した。
「そのうちね。じゃ、僕はもう行くから出てくる時戸締まり忘れるなよ。僕の部屋に泥棒入るのは嫌だからな」
そう言い残して、彼は慌ただしく出掛けていった。
彼の名は常盤木七海。
3ヶ月前から、彼は要の指導医だ。
そして、二人は桜川救命救急センターに所属する医師である。
ただし、正式な常勤医である七海に対して、要はしがない研修医だが。
(働き過ぎなんだよ、あの人)
要は溜息を吐いた。
今日は、当直明けだ。
本来なら非番の予定だった。
それどころか、七海の当直は今日で15日目だ。
今所属している救命救急室 通称ERでは、当直明けの当直など珍しくも無いが、その上こんな風に日勤帯にまでオンコールで呼び出されるのでは、さすがに七海の身体が持たないのではないか、と要は心配していた。
常盤木七海は、実質ERのエースだ。
三次救急を担っている桜川ERでも、医師不足の現実は切実だった。
心肺停止状態、ショック状態における七海の救命率の高さは、医局の中でも飛び抜けている。
(だからってなぁ…。そのうち自分が搬送されるぞ)
主の居なくなった部屋の中は妙にがらんとしていた。
この部屋に泊まるのは、もう何度目だろう。
未だに要の名前を覚えない七海。
別に、付き合っているとかいないとか、そんな遣り取りは何も無かった。
恋人じゃない。
友人でもない。
だからと言って、ただの上司と部下でもない。
時折この部屋に転がり込み、何かを吐き出すみたいに求め合うだけの関係。
七海が要をどういう風に思っているのか、まるで分からなかった。
いつの間にか始まった、奇妙な関係。
「そもそも、きっかけって何だったっけ?」
要が初めてこの部屋に泊まったのはおよそ2ヶ月前 ERに入局して1ヶ月の頃だ。
やはり、当直明けの朝だった。
その頃、初めて経験する激務に、ドロドロに溶けそうなほど要の身体は疲れていた。
そして、重篤な患者が多く搬送されてくる三次救急の現場、その絶え間無く続く緊張感に、神経は三倍疲れていた。
要の様子を見兼ねたのであろう七海が、自宅が近所だから泊まっていけ、と言ったのが始まりだ。
(やっぱり、あれって成り行き…だよな)
実は、その時の事をあまり要ははっきりと憶えていない。
疲れ切った身体に少量のアルコールが入り、気付いた時には自分の下に、相手の身体があった、そんな状態だった。
(今思えば、最低だな…)
どちらからどういうアプローチがあって、そうなったのか。
それは二ヶ月を経過した今も尚、不明のままだ。
まさか七海本人に訊けるはずもない。
(憶えてない、なんて言った日にゃ鉄拳食らうくらいじゃ済まないかも)
ただ一つだけ言えるのは、それが一度で終われば"気の迷い"とか、"酔った勢い"と言い訳も出来るが、こうも回数が重んでくると、もうそんな事は通らない、という事だ。
「大体、あの常盤木先生がこんなこと許している自体が、不思議というか…」
一見人当たりが好さそうに見える七海だが、プライドはそこらの山よりよっぽど高い。
どう見ても、七海は年下の研修医なんか相手にする様なタイプではない。
ましてや、同性の しかも自分より格下の人間に黙って組み敷かれるなど、考えられない。
初めて顔を合わせた頃は、見た目に反して、それは厳しくおっかない先輩だった。
「ほんっとに、わからねぇな」
それに、そのうちここに寝泊まりしている事が第三者に見咎められたりする事も出てくるだろう。
先日も、ナースの一人に”常盤木先生と同じシャンプーですね”などと突っ込まれたばかりだ。
そこは、異性ではない分、今は世間話程度で済んでいるが。
しかし、このままの関係が続いていけば、いつか勘付く人間も出てくるのではないか。
(まあ、俺はあの病院にいられなくなってもそんな困らないけど…常盤木先生はそうもいかないだろうし)
要の実家は開業医だ。
所謂、町の小さなお医者さんというヤツである。
実家が医療関係とは無縁の、勤務医か自ら開業するかしか無い七海に比べ、はるかに気楽な身分ではあった。
(あ、それ以前に身体目当てみたいに思われてたら嫌だよな。…乗っかってるのが俺の方だけに)
いつの間にか、すっぽり溝にはまりこんでいる自分に気付く。
恋愛は、最初に順序を間違えると後が大変だと思った。
最初にすっ飛ばしてしまったものを、今更どこで挟めば良いの分からなくなる。
そんな事を考えているうちに、どんどん頭が覚醒してしまった。
七海には休めと言われたものの、どう頑張ってもこれ以上眠れそうも無い。
ついさっきまでの、地面にめり込みそうな眠気は一体どこへ行ってしまったのだろうか。
要は、それ以上眠るのを諦め、のろのろと身体を起こした。
目の前に、七海の部屋の白い壁と天井が見えた。
ベッドサイドには、壁の代わりに一面が透明な嵌め殺しのガラス窓。
窓に目を遣ると、窓の外には夜のネオンが待ち遠しい摩天楼が林立している。
七海はほとんどこの部屋に帰ってこない。
ここに戻るのは、こうして要が泊まりに来る時くらいではないだろうか。
普段は、住み着いてるといって差し支えないくらい、彼は医局にいる時間が長い。
だから、家具や家電も必要最小限の家具しか置かれていない。
真っ白で、生活感の無い部屋は、どこかうつろで殺風景だった。
(だからって、テレビもオーディオも無い部屋なんて、今時あるかよ、普通)
要は、どの道眠れないのなら、と諦めて病院へ向かう事にした。